さようなら青函連絡船
JRが民営化されてから、連絡船はすぺてJR北海道所有のものとなりました。
そのため船内で見かけたJR北海道のポスターも、北海道出身の女優『古村比呂』のものが使われています。この青函160便もまた自家用車航送をしていないため、後部デッキが広く見えます。陸奥湾に入ってしばらくしてから、函館へ向かう僚船の『羊蹄丸』と出会いました。遠ざかる後ろ姿にいつまでもお元気で、と呼びかけました。
ふたたび戻ってきた青森港では檜山丸の同型船の『石狩丸』がいました。貨物船として建造されたものの、1982年に檜山丸とともに客貨船に改造されたもので、その後、香港などを経てギリシアへ転売され、地中海航路で活躍ののち、2006年にインドで解体されました。
そして迎えた1988年(昭和63年)3月13日、青函連絡船定期運航の最期の日です。最終便は函館から『羊蹄丸』が、青森からは『八甲田丸』がそれぞれ出航しました。この時、期せずして函館港では北島三郎の『函館の女』、青森港では石川さゆりの『津軽海峡冬景色』の大合唱が起こったそうです。連絡船が函館・青森両港の原風景だったことを示す感動的なエピソードですね(つづく)。

***もしも、あの時 ***
青函連絡船や青函トンネルについては思い入れがとくに深く、いろいろと調べました。
日本最大の海難事故となった洞爺丸台風については、不運の連続だったことを知りました。沈没したこの日、青函4便の洞爺丸は午後3時すぎにいったん出港しようとしました。台風が函館にやってくる前に青森・陸奥湾に逃げ込めるというぎりぎりの時間だったからです。しかしここで運悪く強風による停電があり、船尾の可動橋が上がらない、という報告がありました。この停電はわずか2分間の出来事でしたが、船長は時期を失ったと判断し、『本船テケミ』(出港取りやめ)を伝達しました。やがてすぐに可動橋は上がり、スタンバイOKとなったのですが、出港取りやめの取り消し、はありませんでした。
結果的にもしこのとき、なにがなんでも出港していればその後の台風の経過から見て、無事青森に着いていました。台風が函館付近で急激に速度を落としたことを知らず、すでに遠ざかりつつあると船長が判断し午後6時すぎ、洞爺丸は出港しました。同時に吹き返しの風が急速に強まり、瞬間最大風速は57メートルを記録しました。ここで船長は航海をあきらめ、投錨し、鎖を支点にエンジンを使って船首を風に立てて、台風をやり過ごそうとしました。最後までエンジンが健在ならばこの状況でも無事に耐えきれるはずでした。
しかし船尾積み込み口に防水扉が装備されていなかったことが浸水を招き、午後10時すぎの沈没へとつながりました。同じ状況に陥った連絡船に同型船の『大雪丸』があり、大雪丸は投錨ではなく、行き先に関係なく、船首を風に立ててひたすら走り続けるという『踟躊(ちちゅう)航法』をとりました。
これが幸いし、船の速力に波がついてこれず、船尾からの浸水を最小限に食い止めることができ、断続的にショートのためエンジン停止に見舞われながらも排水可能だったためすぐに復旧し、無事嵐の海を乗り切ることができました。
ただ大雪丸は空船であって、洞爺丸は満員の乗客であふれていました。もし洞爺丸が同じ航法をとったならば、ここでも難航したでしょうがおそらくは助かっていたと思います。問題は洞爺丸船長に乗客の中に多数の女性や子供を見たとき、そのような嵐の真っただ中を突き進むというなかば冒険的航法が採用できたかというメンタルの問題です。
洞爺丸の近藤船長は青函航路を30年間無事故で過ごしてきた名船長で、このときはベテラン船長のみが選ばれる予備船長となっていて、洞爺丸の専属船長である杉田船長が休暇のため、たまたま洞爺丸を指揮していました。
もし専属の杉田船長が船の指揮をとっていればどうだったでしょうか。調べるほどあまりにも『もし』が多いことに運命のめぐり合わせの不思議を思わずにはいられません。

 
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