摩周丸 函館へ
わずか13分の接続に、乗船口からあわただしく船内に入りました。列車がホームに着くたびに、少しでも自分たちに都合のよい席を確保しようと人々は自然と駆け足になっているのです。これは連絡船の恒例の風景といえます。今日の青函5便は『摩周丸』です。出航5分前にテープで『ドラ』の音が鳴らされ、『ホタルの光』のメロディが流れるなか船は静かに青森港をあとにしました。船首付近の水面下に取り付けられた『バウスラスター』が作動し小さな渦をまいて桟橋から離岸します。青森駅構内と三角形の建物『青森観光物産館・アスパム』が次第に遠くになってゆきます。この日の摩周丸は、帰省客と連絡船最後の夏を楽しもうとする人でほぼ満員でした。煙突のマークは旧国鉄の『JNL』から今年4月1日から発足した『JR』へと換えられています。盛岡から乗ってきた『はつかり』がいまだ『JNL』マークを付けていたのとは対照的です。
この時点でJRの青函航路には合計7隻の客貨船が就航していました。いま乗っている『摩周丸』と『八甲田丸』『大雪丸』『羊蹄丸』『十和田丸』そして貨物船から改造された『石狩丸』と『檜山丸』の計7隻です。青函航路廃止後、海峡の女王たちはどうなったでしょうか?。いま乗船している『摩周丸』は幸いなことに『函館市青函連絡船記念館』としていまも旧函館桟橋に保存されています。『八甲田丸』も同じくこちらは青森港に『メモリアルシップ』として保存されています。『羊蹄丸』は東京都の『船の科学館』に『フローティングパビリオン』として保存されています。現在、国内に残された連絡船は以上3隻だけです。あとの連絡船たちはいずれも最終的に海外に転売され、中国に売られた『大雪丸』を除いて、すべて老朽化のため解体されるか、『檜山丸』のように2009年5月にインドネシアでフェリーとして航行中に積んでいた車両から出火して炎上、あわれ廃船になったのもあります。津軽丸2型と呼ばれる現在の『摩周丸』は1965年(昭和40年)6月30日に就航し、総トン数は約5300トン、全長132メートル、幅17.9メートル、航海速力は18.2ノット(時速約33キロ)、旅客定員は約1200名、48両の貨車のほかに12台の乗用車を搭載できます。ただ本日は自動車の搭載は行われていないため、後部甲板が広くみえます。津軽丸2型は、当時の最新技術をフルに取り入れた『自動化船』で、極力人員を削減し、船橋からの遠隔操作での操船が可能となっています。とくに画期的なのはスクリューに『可変ピッチプロペラ』を取り入れたことで、これによりエンジンの回転をかえることなく、プロペラの翼の角度を変えるだけで前進や後進ができます。燃料は1回の航海で約6100リットル(石油18リットル缶で339缶)の軽油を使います。ちなみに連絡船の建造費は1隻あたり約18億円で、昭和40年当時の1軒あたりの普通の家の建築代が約300万円でしたから、連絡船1隻の建造費で約600軒の家ができたことになり、ちょっとしたニュータウンが出現したことになります(つづく)。

 
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