函館入港
やがて水平線の彼方、進行方向右手前方に、平べったい台地のような函館山が見えてくると、連絡船の旅も終わりに近づきます。スピーカーから函館山の観光案内、山頂から望む夜景は世界三大夜景のひとつといわれていますという趣旨のガイドがありました。
函館港の手前で、青森港に向かう、もうひとつの青函連絡船『青函フェリー』とすれ違いました。青函フェリーは民間の共同運航の会社で、就航船舶は約2000トンクラスとJR青函連絡船の半分ほどの大きさです。所要時間は同じ3時間50分で、現在1日8便が運航されています。世間では青函連絡船が廃止になったことで、青函フェリーもいっしょに廃止になってしまったような印象をうけたのは、とんだ迷惑だったと思います。
函館港に入港するとさっそく補助汽船がやってきて船の後部を押して、接岸に協力します。すでに日没が近く、イカ釣り船の漁火が見えます。函館港では、同じ連絡船の『檜山丸』と出会いました。1976年(昭和51年)8月に就航したいちばん新しい船で、当初は貨物船でしたが、『松前』の引退により客貨船に改造された船です。この檜山丸には後日談があって、航路廃止後、財団法人の少年の船協会に売却されて『青少年研修船・21世紀号』として、工事を受けるために和歌山県の由良港にはるばる回航され1989年(昭和64年)より和歌山県の由良港を母港として活躍しました。当時、そのことをまったく知らなかった僕は、仕事で南紀方面に行った帰りに、国道を走行するバスの車窓から何気なく外を見ていて、由良港に青函連絡船型の船が係留されているのにはじめて気がつきました。初めは『こんなところにまさかな』と我が目を疑いましたが、独特の後部マストは紛れもなく連絡船のものです。帰ってさっそく調べてみるとやはり本当だったことがわかり、休日に高橋君を誘って車で由良港に見学に行きました。廃止後、手入れされていない船体にはさすがにサビが浮かんでいて痛々しい感じでしたが、煙突にはいぜん『JR』マークがあってあの日あの時、函館港で出会ったときの姿そのままでした。
前述のように檜山丸はその後、さらにインドネシアに売却され、昨年航行中に火災により全焼、そのまま廃船になり33年の生涯を故郷はるか遠くの南溟の海で終えました。
定刻の18時50分、摩周丸は函館桟橋に到着しました。幾度となく乗った摩周丸ともこれでお別れかと思うと、さすがに感傷的になり立ち去りがたく、しばらく船をながめていました。駅前に出ると、観光シーズンたけなわで大勢の人々でごった返していました。ここからタクシーで宿泊先の叔母の家に向かいました(つづく)。

 
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11  道中記TOPへ
     
 

(c) 2005 Takahashi Satoshi. All Rights Reserved.