二社一寺めぐりC 東照公遺訓
二社一寺の『建物群』には、国宝9棟、重要文化財94棟があります。
『唐門(からもん)』は、陽明門をくぐった『本社』の入り口にあります。『四方軒唐破風』造りの唐門は、将軍にお目見得できる人物しかくぐれません。この門は、貝をすりつぶした『胡粉(ごふん)』と呼ばれる塗料で塗りつぶされ、極彩色の陽明門とは対照的に、比較的落ち着いた色合いになっています。しかし門を飾る彫刻は見事で、屋根正面にいる獅子に似た動物は『恙(つつが)』といって、獅子や虎より強いとされる『想像上』の動物です。夜の守りを担当します。
左右にいる『鰭切れの龍』は、昼の守りを担当します。なぜ鰭(ひれ)が切られているかというと、あまりにもうまくできているために、逃げ出されてしまっては大変、ということで鰭を切ったのだといわれています。動物園などに飼われている鳥がどこかへ飛んで行って居なくならないように、風切羽を切ってしまうのと同じ理屈ですね。『唐門』から左右に本社を囲んでいるのが『透塀(すきべい)』です。『回廊(かいろう)』は、本社を中心に、東西南の三方を囲む廊下で、数において境内最大規模の彫刻があります。上から『天・地・水』を表した、雲・花鳥動物・水鳥の3段の彫刻に分かれています。本社の『本殿』は神聖な場所につき、拝観できません。写真撮影も禁止です。内部には、家康のほか、豊臣秀吉、源頼朝が祭られています。もっとも有名な彫刻のひとつである国宝の『眠猫(ねむりねこ)』は、奥社の入り口にある坂下門にあり、東照宮ある5100体の彫刻のうち、『唯一の猫の彫刻』です。ここから先の見学には別料金(520円)が必要です。体長約20センチの『眠猫』は、江戸初期の名工『左甚五郎』の作と伝えられますが、そのテーマは、はっきりせず昔からさまざまな解説がなされています。大切な奥社にネズミを通さないためだとか、うたた寝する猫が平和な世の中を希求して彫られたのだ、などという説です。
『奥社』は徳川家康の『墓所』で、207段の石段を上ったところにあります。この『奥社』は、将軍や徳川家の社参以外、昭和40年(1965年)までは非公開だったところです。まず黒塗りの入母屋造りの『拝殿』があり、寛永の大造営で建てられたものです。裏に回ると青銅製の『鋳抜門(いぬきもん)』があります。この奥に、家康の墓所があります。あたりは森閑とした杉林に包まれており、いかにも『神気』が漂っているように感じられます。家康の墓所は『宝塔(ほうとう)』といい、当初は『木造』で、その後『石造り』を経て、現在のものは5代将軍『徳川綱吉』の時代、天和3年(1683年)に鋳造されたものです。高さは5メートルで八角九段の基盤の上に建っています。
余談ながら、家康が死後、最初に葬られた静岡の『久能山東照宮』の墓所にも同じような形の『宝塔』があります。こちらのほうは『神廟(しんびょう)』と呼ばれ、高さはわずかながら高く、6メートルです。
ところで家康の残した教えとして有名なものに『東照公遺訓(とうしょうこういくん)』があります。
家康のものではなく、余人によって後世に作られたものだという説もありますが、どちらにしろこの『遺訓』ほど、家康の生涯を表したものはないでしょう。
『人の一生は重荷を負て、遠き道をゆくが如し。いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし。こころに望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基(もとい)。怒りは敵と思え。勝つことばかり知りて負くることを知らざれば、害其(その)身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり』。
家康は幼少のころより、徳川家(当時は松平家)の『当主』でありながら、弱小のため、隣国の超大国である『今川家』の『人質』となり、さまざまな恥辱に耐え、ようやく『桶狭間の合戦』で、織田信長が大将である『今川義元(いまがわよしもと)』を討ち取ることにより、人質生活から解放され『三河』を統治する大名として独立しました。その後、人質から解放してくれた『織田信長』と『軍事同盟』を結びましたが、対等であるはずの『同盟者』でありながら『信長』にまるで『部下』のようにこきつかわれつづけました。戦国時代最強の武将のひとりである『武田信玄』の『三河侵攻』においては、『同盟軍』であるはずの信長に援軍を要請しましたが、わずか3000人ほどしか派遣してくれず、結局、武田軍2万5千名に、わずか半数以下の11000名ほどで無謀な戦い(三方が原の戦い)を挑み、散々に打ち破られ、あろうことか討死の恐怖のあまり敗走中の馬上で『脱糞』までするありさまでした。かろうじて浜松城に逃げ込んで、この時の危機は脱したものの、今度は武田信玄の後継者である『武田勝頼(たけだかつより)』に『内通』しているのではないか、
という嫌疑を織田信長からかけられてしまい、正室である『築山殿』と長男の『信康(のぶやす)』の処分を信長から命じられます。
家康の『正室』であった『築山殿(つきやまどの)』は駿河の今川家の出身であり、家康が今川家を見限って、信長との同盟に踏み切ったため、今川家から報復として『父親』を殺されてしまい、そのことで家康を深く恨むようになりました。
家康の長男である『信康』の嫁は、信長の娘である『徳姫』であり、この事件の後、姑である『築山殿』との関係がぎくしゃくとし、ついに怒った徳姫はこともあろうに父である信長に、『築山殿と信康様は、甲斐(かい)の武田勝頼と内通しておりまする』という手紙を書き送ったのです。
要するに二人は『裏切り者です』ということで、激怒した信長のいうがまま、家康は泣く泣く、築山殿は護送中に捕斬し、信康に対しては切腹を申し付けました。
信康は、勇猛果敢な猛将であったといわれ、徳川家の後継ぎとして将来を期待されていた身でありました。
この時の、家康の選択として、あくまで『冤罪』を主張して暴君・信長とは手を切り、逆に武田家と手を結んで、信長に対抗するという手段もあり得たはずですが、家康はそうはせず、苦渋の決断のもとに身内の二人を処分したのでした。
のちに『独裁者』信長が本能寺の変で、明智光秀に襲われてようやく滅んだ時、家康はわずかな手勢とともに泉州・堺をのんびりと観光中でした。
光秀は、この機会に家康をも討ち取るべく追手を派遣し、兵力もなく戦うこともできない家康は、一度は自害を決意しますが、部下たちに押しとどめられて、『伊賀越え』と呼ばれる光秀の勢力の及んでいない、三重県の『伊賀』の山中を突破して本拠地の三河の脱出に成功します。
ようやく本国で軍勢を整え、光秀との決戦に向かう途上、いちはやく『山崎の合戦』で秀吉軍が光秀軍を撃破し、最後まで抵抗したものの結局、秀吉に『講和』という形で『臣従』を誓うことになり、またもや『我慢』の日々を過ごすことになります。やがて秀吉が、病死し、『関ヶ原の合戦』で勝利し、征夷大将軍となって『江戸幕府』を開くことになったのは、家康がじつに61歳の時でした。
家康の記録を調べていて思うことは、この人は大志を果たすために自分の感情と葛藤し、さまざまな試練に挫けることなく、ほんとうによくぞここまで耐えてきたな、という驚きの事実です(つづく)。

 
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