二社一寺めぐりB 三猿と陽明門
現在の豪華絢爛たる日光東照宮ができたのは、1634年(寛永11年)に徳川家光が日光に社参し、2年後の家康没後の21神忌にむけて、社殿の大造営に着手したのが始まりです。
江戸幕府初代、徳川家康は豊臣家滅亡の翌年、1616年(元和2年)4月17日に駿府城(いまの静岡)で74歳で亡くなります。死因は『胃がん』だったというのが現在の通説です。
遺骸は遺言により『久能山東照宮』へ葬られたのち、翌年、遺命により日光へと移されました。
生前、訪れたことのない日光を家康が選んだ理由として、中国の思想で、北極星が宇宙全体の神であるという思想をもとに、江戸の真北にあたる日光に祭られることで、幕府の安泰と日本を守護する神になろうとしたからです。1617年に天海僧正によって創建された社殿は、これも遺命に従い、比較的に質素なものでした。しかし家光が、行った『寛永の大造営』というのは、幕府の威信をかけた国家的プロジェクトで『まかないいっさいおかまいなし』という大胆なものでした。
ために総工費は約56万両(約400億円)に膨らみ、総動員数約453万人、延べ日数1年3ケ月におよぶ大工事となりました。現在の日光東照宮は、5年後の『家康没後400年』にむけて、ふたたび大修理が続いています。お清めをするため『水盤舎』(すいばんしゃ)に立ち寄りました。御手洗を設けたのは日光東照宮が最初とされます。ここには九州の肥前藩主の『鍋島勝茂』が奉納した花崗岩製の水盤があり、『サイフォンの原理』(段差のある2つの水面を管で結ぶと、管が上の水面よりも高いところを経由しても自然と、この管の中を水が昇って下る)を利用したハイテクが応用されており、当時の人の博識と、その知恵に驚かされます。
日光のアイドルともいうべき『三猿』の彫刻は東照宮に仕える『ご神馬』の居場所である『神厩舎』(しんきゅうしゃ)にあります。その昔、猿は馬を守る、との言い伝えがあり、実際に猿を厩で飼っていた時代もあったそうです。
有名な『見ざる・言わざる・聞かざる』の三猿の彫刻は、『長押』(なげし)に彫られた猿の彫刻8態のなかで、妻側の左から2番目のところにあります。この三猿は日光東照宮の『三彫刻』のひとつです。あとのふたつは前述の狩野探幽の『想像の象』と、これから行く『眠り猫』です。
陽明門の前には、左右対称に『鼓楼』と『鐘楼』があります。江戸時代には、祭りの始まりに『太鼓』、終わり『鐘』を打ったとされています。ようやく『陽明門』までやってきました。
日光東照宮の建築美を代表する極彩色の楼門で、高さは11.1メートル、500以上の彫刻が施され、この門だけで大工延べ人数約12万7千人が携わったといわれています。
屋根の下に掲げられた『東照大権現』の扁額は『後水尾天皇』の宸筆によるものです。
門の正面の左右の柱の間には、大礼服姿の『随身』(ずいしん)が座っています。背後に回ると、随身の背中合わせに『狛犬』か置かれています。このときは気づきませんでしたが、門の左側3番目の柱だけが『逆さま』になっていて、『物事は完成した時から崩壊が始まる』との思想にもとづき、わざと不完全にしてあるとのことでした。この有名な『逆さ柱』のことは帰ってから知り、事前の情報収集が足りなかったことを少し後悔しました(つづく)。

 
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