日光への旅
仕事で『日光』へ行くことになり、いままで行ったことがなく初めての観光地でしたので『下見』に行くことになり、1988年(昭和63年)9月9日土曜日の夜、大阪駅にやってきました。
今回も例によって、現在は廃止された東京行きの寝台急行『銀河』を利用することにしました。この日の銀河号は、鉄道ファンのあいだで『ネコヒゲ』と呼ばれた24系25形特急用寝台車を使用しています。塗装簡略化のため車体にステンレスの帯を施した車両です。
ちなみに特急用寝台車が急行列車に転用されたのは、銀河号が初めてで、最初はブルートレインの元祖『20系』が、そして『14系』を経て最近『24系』にアップグレードされたばかりです。
寝台は上下2段式で寝台幅は70センチです。上段には荷物置きがあって下段よりゆったりしていますが、移動のたびに鉄ハシゴを昇降しなければならないという難点があります。
この日の銀河号は9両編成で、僕の寝台は2号車8番の下段です。22:10大阪駅を出発した列車は8時間30分かけて翌日の6:47に東京駅に定刻に到着しました。
週末とあって大半を占めるビジネス客の利用が少なく車内は空いて快適に過ごすことができました。
東京駅の写真は東側の出入り口である『八重洲口(やえすぐち)』の写真です。
『八重洲』の地名は、江戸時代の徳川家康の国際情勢顧問や通訳として活躍したオランダ人『ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン』がこの地に邸宅を与えられ居住したことに由来します。彼は、天下分け目の『関ヶ原の合戦』のあった1600年に、オランダ船『リーフデ号』で同じく幕府に重用された航海長の『ウィリアム・アダムス』(のちの『三浦安針』みうらあんじん)とともに豊後(いまの大分県)に漂着しました。彼の日本名は『耶楊子』(やようす)で、これが訛って『八重洲』となりました。
『ヤン=ヨーステン』のその後ですが、幕府での仕事が一段落したあと帰国しようとインドネシアまで渡りましたが帰国交渉がまとまらずあきらめて再度、日本へ引き返す途中、遭難し、溺死したといわれています。
現在の『八重洲』は発展の一途をたどり、巨大書店として知られる『八重洲ブックセンター』の本店や、日本有数の地下街である『八重洲地下街』があります。
さて日光へは『浅草』からの『東武鉄道』が便利なので、地下鉄で浅草まで移動しました。
東武特急『けごん』の発車まで時間があるので時間つぶしに『浅草寺(せんそうじ)』に行ってみることにしました。浅草寺の山号は『金龍山』で有名な『雷門』にその偏額がかかっています。参考までに『雷門』の由来は、門の左右に『風神・雷神』を配していることからであり、1865年(慶応1年)に焼失後、1960年(昭和35年)の復元です。
雷門から宝蔵門まで続く石畳の商店街が『仲見世(なかみせ)』であり、参詣客相手に江戸時代からの繁栄が続いています。この日は週末ですが早朝とあって参道の人通りはまばらでした。
東京都内最古の寺院である『浅草寺』は年間3000万人の参詣者があり、本尊は『浅草の観音さま』で親しまれている『聖観音菩薩像』です。
像はその昔、飛鳥時代の628年に地元の漁師の網にかかったものと伝えられ、いまの浅草寺の中興の祖となったのは、平安時代にのちの天台宗第3代座主の『慈覚大師・円仁(じかくだいし・えんにん)』がやってきて本尊をお祀したことによります。
『宝蔵門』に至ると、本堂落成30年記念の『大開帳(おかいちょう)』の看板が掲げられています。『大開帳』というのは本尊の観音像の扉を約1ケ月間にわたって公開するもので、10数年に一度のお祭りです。しかし残念ながら結果的に、今年の10月17日から始まるはずだった大開帳は『中止』となってしまいました。これは『昭和天皇』のご病状悪化を配慮してのもので、ほかにも京都の『時代祭』など、この年の日本列島は軒並み『秋祭り』が自粛されたのでした。
毎年続いてきた庶民の楽しみである『お祭り』を『自粛』してまで、国民にご病状平癒を願われることは、病床にあった昭和天皇のけっして『本意』ではなかったと思われますが、なにか大きな不幸が訪れるたび、現在まで続く自粛ムードがこの時代にも大きな影を落としていたことがうかがえます(つづく)。

 
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