二社一寺めぐりA オランダからの廻灯籠
日光山内を進んでゆくと、最初に現れるのが『輪王寺』(りんのうじ)です。比叡山延暦寺・東叡山寛永寺と並ぶ『天台宗三本山』のひとつです。この輪王寺は、勝道上人が、前身である『四本竜寺』を建て、慈覚大師・円仁による『輪王寺』を創建を経て、約1200年の歴史があります。
不思議なことに境内の建物に『これが輪王寺です』という建造物はなく、『三仏堂』がその中心の本堂になっています。
この三仏堂は、日光最大の建造物で、正面33メートル、側面25メートル、高さ26メートルに達する重層入母屋造りの大伽藍です。その由来は、本尊である『馬頭観音』をはじめ『阿弥陀仏如来』・『千手観音』の計3体をお祭りすることからその名があります。中に入ると金色に輝く高さ8.5メートルの木像が並び立ち、荘厳です。
『三仏堂』の裏手には、ロケットを思わせる高さ15メートルの青銅製の『相輪?』(そうりんとう)があります。相輪?としては日本最大のものです。1643年(寛永20年)に徳川三代将軍、徳川家光の発願で、天海僧正が比叡山の宝塔を模して構築したもので、塔内に1000部の経文が収められ、天下泰平を祈願せるものなり、と伝わります。家光の時代になっても、いまだ天海僧正が存命していたというのは驚きですが、伝承によるとこの塔が建てられた108歳に、ついに大往生を遂げた、とのことです。塔を見てすぐに思ったことは、おかしな話ですが、特撮物のサンダーバート3号、またはウルトラホーク2号に似ているな、ということです。塔を支える柱脚が、ロケットのエンジン部分を連想させるからです。当時にはロケットなどはなかったので、想像もつかなかったでしょうが、現代人が見ると、どうしてもロケットをイメージしてしまうのは共通の印象だと思います。
東照宮の入り口には、三つ葉葵の紋が入った東照宮と刻まれた石碑と、一ノ鳥居と呼ばれる鳥居が立っています。この葵紋の由来は、徳川氏の祖先である松平氏が、京都の『賀茂神社』を古来より厚く信仰しており、賀茂神社の祭礼で用いられる神聖な植物である『カモアオイ』からとったものです。いまでは時代劇の『水戸黄門』の『印籠』ですっかりおなじみですね。
『一ノ鳥居』は高さ9メートルの花崗岩製で、1618年に九州の筑前(いまの福岡県)の大名であった黒田長政が奉納したものです。畳一畳分もある大きな勅額には天海僧正が命名した『東照大権現』の文字があります。この鳥居は江戸時代の石の鳥居としては日本最大のものであり、さらには京都の八坂神社・鎌倉の鶴岡八幡宮と合わせて『日本三大鳥居』のひとつとなっています。
鳥居をくぐると『表門』があり、参拝にはここから別料金が必要です。『二社一寺めぐり』の共通の拝観券(1000円)を購入していたのでそのまま進みます。この『表門』の上部には、悪夢を食べるという霊獣『貘』(ばく)の彫刻があります。東照宮には、ほかにもさまざまな動物の彫刻があり、それぞれが解明されていないものもありますが、深い意味をもっています。
表門の手前左側にある高さ36メートルの『五重塔』は、1650年若狭国小浜藩主の酒井忠勝が寄進したもので、現在のものは子孫の忠近が1818に再建したものです。4階までが『和様』、5階部分は『唐様』ということですが、下から眺めている分には違いがよくわかりませんでした。
表門を抜けると、正面に『三神庫』があります。三神とは『下神庫』『中神庫』『上神庫』の総称です。奈良の正倉院の『校倉造』にならって造られました。このうち『下神庫』には天海僧正が、静岡の久能山から徳川家康の遺骨をこの日光山に移した際の行列『千人武者行列』を再現した祭礼に使う、約1200人分の装束がおさめられています。この祭礼は毎年、春と秋の2回行われており、今年(2011年)は5月17・18日に盛大に行われました。
ここにも動物の彫刻が描かれていて、場所は『上神庫』の軒下で、種類は『象』です。しかしこの『象』よく見るとちょっと変です。これはこの彫刻の下絵を描いた江戸幕府の御用絵師である『狩野探幽』(かのうたんゆう)が、じつは書物で読んだだけで実物の『象』を見たことがなく、いわば想像(シャレではなく)で描いたものだからです。2体の象のうち、1体はお腹の色が異様に白く、もう1体は『三日月形の目』が気になります。
記録によると日本への象の初渡来は1408年、異国との貿易に熱心だった室町幕府の、将軍『足利義持』への献上品として東南アジアからの南蛮船により贈られたのが最初で、1602年にはベトナムから徳川家康への献上品として虎・孔雀とともに贈られています。その際、行列には多くの見物人が押し掛けたはずで、この時、探幽は見学の時期を逸したものと思われます。
寄贈されてきた象のエビソードで有名なのは、後年、8代将軍『徳川吉宗』の時代の1728年、ベトナムからやってきた象が、長崎からはるばる陸路を江戸まで、約80日間かけて延々と徒歩移動した際の出来事です。
滑稽なのは『象が見たい』と言っていた将軍様への寄贈なのに、途中の京都で『中御門天皇』による上覧があり、勝手に『広南従四位白象』なる『官位』までもらってしまったことです。
余談ながらこの『従四位』という官位は、江戸幕府では老中や高家(忠臣蔵で有名な吉良家など)、ほか外様大名の10万石以上の国主が叙せられるもので、そうとう高位な官位と言えます。
もっともありがたく?頂戴したはずの『象』にとっては、たんに餌をもらえるほうが、よっぽど魅力的だったでしょうが…。
話がそれましたが、『上神庫』のわきにある『南蛮鉄灯籠』は、ポルトガルから輸入された鉄を使って『独眼竜』で知られる戦国武将『伊達正宗』が奉納したものです。このように東照宮の造営にあたっては各地の有力大名がこぞって幕府への忠誠を誓うかのように寄進あるいは奉納されたものが多数あります。
有名な陽明門まではあとわずかのところまで来ましたが、この門への階段下のところにある『廻灯籠』は、鎖国政策にあった徳川幕府がヨーロッパ諸国の中で唯一、貿易相手国としていた『オランダ』から寄贈されたものです。
惜しむらくは製作ミスのためと思われますが、葵の紋が逆さまになっています。
長崎のテーマパーク『ハウステンボス』にかつてあったアトラクションシアター『大航海体験館』(2008年6月閉館)での上映作品(2話)に『将軍への贈り物 、海を渡ったシャンデリア』というのがあり、この廻灯籠が大変な苦労ののち運ばれてきたというエピソードで、見ていてとても感動しました。もう一話は『デ・リフーデの大航海』といい、前述したオランダ船リーフデ号がこちらも艱難辛苦を乗り越えて日本へやってきた物語です。オランダのロッテルダムを出航した東洋探検を目的とする5隻の船団のうち、無事に日本までたどり着いたのはリーフデ号ただ1隻だけで、110名の乗組員のうち生存者はわずか24名のみという過酷な航海でした。
彼らの冒険的航海のおかげで、日本とオランダが貿易するきっかけが生まれたのです。このリーフデ号は、1600年に豊後に漂着のあと、大砲など主要な武器は取り外されて廃船となりましたが、昭和に入ってから原寸大に復元されたリーフデ号は、ハウステンボスの前身である『長崎オランダ村』からいまのテーマパークに移され、過去の雄姿を現在に伝えています(つづく)。

 
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