日光山内〜二社一寺めぐり@ 黒衣の宰相
日光は1999年12月、日本で10番目、東日本では初の『世界文化遺産』に登録されました。
僕が訪れたこの年から11年後に世界遺産に登録されたわけです。
『日光を見る前に、けっこうというなかれ』の格言で称えられる日光山内は、『日光東照宮』『輪王寺』『二荒山(ふたらさん)神社』のいわゆる『二社一寺』の建造物をめぐるのが日光観光の主流となっています。とくに徳川家康を祭る『日光東照宮』は、荘厳華麗な建築美として有名です。
ドイツの著名な建築家として知られ、ヒトラーのナチス政権から逃れて日本に亡命してきて、第二次大戦後にトルコで客死した『ブルーノ・タウト』は、さまざまな日本建築を著書に表し、世界に紹介した人物です。しかし彼の好みは、『簡素な建築物』にあり、京都の『桂離宮』や白川郷の『合掌造り』などには『泣きたくなるほど美しい』などと絶賛していますが、日光東照宮に関しては『これは建築の堕落である』と批判しています。華美なものが嫌いだったのですね。
イギリスの女性旅行家で紀行作家の『イサベラ・バード』は明治時代に、日光にやってきてその精緻な美しさを絶賛しています。同じ外国人であっても、美に対する感性の違いが感じられてとても興味深いです。
東武日光駅から大谷川(だいやがわ)に沿ってしばらく歩くと、赤いアーチ型の橋が現れます。日光の入り口にあたる『神橋』です。日本三大奇橋(山口県の錦帯橋・山梨県の猿橋)のひとつでもあります。長さ27メートル、幅6メートルの木造橋で、かつては勅使・将軍・入峰行者以外の通行は禁止されていましたが、いまでは300円の渡橋料を払えばだれでも渡ることができます。
この神橋のすぐ下の大谷川に架かる日光橋のたもとに立つのが、徳川家で『黒衣の宰相』とまで恐れられた『天海(てんかい)僧正』の像です。天海は家康の神号を『東照大権現(とうしょうだいごんげん)』と定め、家康の遺言に従い、遺体を静岡県の久能山からこの日光山へ改葬した人物です。また天海は、徳川家康の側近の知恵袋のひとりとして、豊臣家滅亡につながった1614年〜1615年の『大阪の陣』での『方広寺鐘銘事件』を画策した人物です。
当時、家康はなんとか自分の目の黒いうちに豊臣家を滅ぼしてしまいたいと思っており、開戦へのよき口実はないものかと日夜、思案しておりました。そこで相談を受けた『天海』が、豊臣家が再建していた京都の『方広寺』の『梵鐘』の銘文『国家安康・君臣豊楽』に目をつけ、『これは徳川家康様を呪い、豊臣家の繁栄を願うものである』と家康に告げたため、家康は立腹し(ほとんど芝居ですが)、豊臣家攻撃の大阪の陣が始まったというわけです。
これが徳川家の『いいがかり』であったことは明白で、その証拠に方広寺の鐘と銘文は破壊されることなく現在も残っています。『天海』の不思議なのは、その前半生がまったく不明なことです。一説では、織田信長を本能寺に襲い、自害させた武将『明智光秀』の後身ではないか、といわれています。秀吉との『山崎の合戦』で敗北し、敗走中、土民に襲撃されて落命したのは光秀の『影武者』で、ほんとうの光秀は落ち延びて、豊臣家の恨みを抱えつつ正体を隠し、家康に仕え、家康自身もそれを知りつつ召し抱えていたといういわゆる『歴史ミステリー』です。
その根拠として、明智光秀の木像と位牌のある寺の名が『慈眼寺』で、天海の大師号が『慈眼』であること。天海の修業した比叡山に『慶長二十年二月十七日奉寄進 願主光秀』と刻んだ石灯籠がある、ことなどがあげられています。すべては歴史の闇の中ですが、もし事実とすれば光秀はみごと恨みを晴らしたことになるわけです。
さらに進んでゆくと、もうひとつ錫杖を持った銅像が立っています。こちらは日光開山の祖である『勝道上人(しょうどうじょうにん)』の像です。勝道は766年に、大谷川の激流を渡って、日光を開山、『輪王寺』と『二荒山神社』を創建しました。
これから約800年ののちに『日光東照宮』が創建されたことになります(つづく)。

 
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