東武鉄道デラックスロマンスカー
『東武鉄道』は関東最大の私鉄です。開業は明治30年11月1日で、車両総数は1524両(1987年現在)です。総延長は大阪〜東京間にわずかに短い、480.2キロメートルにおよび、関西の『近鉄』・東海の『名鉄』に次ぐ長さです。
世界遺産の『日光』へは東武鉄道の利用が便利です。浅草からの直通特急『けごん』が、日光まで約1時間45分で結んでいます。ちなみに特急の愛称ですが、日光ゆきは日本三名瀑のひとつ『華厳の滝』からの『けごん』、鬼怒川温泉ゆきは『きぬ』と名付けられていました。
この特急『けごん』『きぬ』に使われている車両が、東武鉄道の『看板列車』である1720系特急用電車で、通称『デラックスロマンスカー』(DRC)と呼ばれていた車両です。
1990年(平成3年)に後継車である100系『スペーシア』が登場するまで、じつに31年にわたり日光・鬼怒川方面への特急用列車として用いられました。その先頭車両の独特の外観から一部の鉄道ファンの間では、『けごん』ならぬ『カバごん』と呼ばれていました。
車内の特徴としては、日本の鉄道車両としては最初に導入された貫通路の『マジックドア』いまでいう『自動ドア』の設置、座席は現在のJRのグリーン車に匹敵する『リクライニングシート』と『フットレスト』を全席に装備し、シートピッチいわゆる座席の前後間隔は、国際的な観光都市である日光を訪れる外国人旅行者の体格に対応した1100ミリメートルと広めで、サロンルームには『ジュークボックス』が備えられ、レコードを聴きながら流れゆく車窓を楽しめるようになっていました。もっともこの『ジュークボックス』は時代の移り変わりでレコードがCDへと移行するにつれ『入手困難』となったため、引退直前の1989年に撤去され座席に変更されました。
『東武日光線』にこのような豪華特急が投入された背景には、東北本線を経由してほぼ路線が併走する国鉄(現JR)の『日光線』を走る新鋭157系準急(のちに急行に格上げ)『日光』号の存在があったからです。157系電車は、準急とはいえ特急電車なみの設備を持ち、しばらく両者のあいだで熾烈なサービス競争が繰り広げられたのでした。
しかし所要時間の点で、国鉄側は東京〜日光間を約2時間と、どうしても東武側を凌駕することができず(東北本線から日光線の分岐駅である宇都宮で進行方向がかわるため)、1982年(昭和57年)に上越新幹線によるダイヤ改正を契機に、急行『日光』は廃止され、ここに国鉄日光線を走る定期運行の優等列車は消滅し、東武日光線に勝利の凱歌が上がったのでした。
しかし時代は移り、国鉄がJRとなると、東武鉄道の『独り勝ち』状態をながめていたJR側が、いままでのプライドを捨てて、JR新宿駅への東武特急直通と、東武日光線へのJR車両の『相互乗り入れ』を提案し、2006年3月から東武日光線へのJR特急『日光』『きぬがわ』の運行を開始するという『離れ業』をやってのけたのでした。使用車両は国鉄時代の485系特急用電車が用いられ、『個室車』の設備もある東武特急の『スペーシア』には遠く及びません。
僕が住んでいる関西でも現在、JR・私鉄かかわらず『相互乗り入れ』が盛んに行われており、これも時代の変遷と言えるのだと思います。
浅草8:40発、東武特急『けごん7号』は、10:23に東武日光駅に着きました。乗り心地はというと、座席が『マジックドア』のすぐ後ろで、人が通るたびにスライド式に開閉して落ち着かず、車両自体もすでに『引退間近』ということもあって老朽化が進んでおり、さほどの速度でもないのにガタガタとよく揺れて、おせじにも『良かった』とは言えませんでした。
『けごん』はこのあと鬼怒川温泉に回送されて『きぬ』になるらしく、先頭車両のヘッドマークはすでに手際よく差し替えられていました。
東武日光駅はは三角屋根の、山小屋ふうの駅舎です。JR日光駅とは、徒歩でわずか3分しか離れておらず、この時、もし上野から東北新幹線利用で宇都宮経由で日光までやってくると、
所要は約1時間35分とわずかに早いものの、料金は約5000円も高く、だんぜん東武特急利用が有利と出ました。これから徒歩で日光へと向かいます(つづく)。

 
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