ヴォーリーズ
秀次を処刑したのは、豊臣秀吉生涯の最大の失敗でした。なぜなら、秀次はただでさえ人材の少ない豊臣家にとってただひとりの成人した男子だったからです。
秀次処刑の3年後、あとを追うようにして秀吉も61歳で亡くなりました。この時、豊臣家の後継者たる『豊臣秀頼』はまだわずか5歳の子供でした。とても頼りになるものではありません。支柱を失った豊臣家はたちまち加藤清正らの武将たちと石田三成をはじめとする文官たちとの間で内紛が起こり、そこを老獪な徳川家康に付け込まれて、秀吉死後の2年後の1600年の関ヶ原合戦で、ついに家康に政治の実権を奪われることになります。歴史にifはありませんが、このとき秀次が関白として健在であればあんなにやすやすと家康に天下を奪われることなどなかったのにと、つくづく残念でなりません。現在、八幡山ふもとの『八幡公園』に豊臣秀次の像が立っています。市民から寄贈された銅像ということです。
八幡山からおりてきたあと、『日牟礼八幡宮(ひむれはちまんぐう)』に参拝しました。正暦2年(991)創建の近江八幡商人の信仰を集めた古い社です。本殿のほか能舞台などもあるたいへん立派な神社で社名の由来は日輪(にちりん)がこの地に現れたことによります。この八幡宮はのちに近江八幡の地名の由来にもなりました。
祭事として火祭りである『左義長まつり』と『八幡まつり』が伝わります。市立資料館のひとつ『旧伴家住宅』には左義長まつりの神輿が展示されています。
八幡宮の向かい側には、滋賀県の和菓子の老舗『たねや・クラブハリエ』があって、歩き疲れたら店内の喫茶で休憩するとよいでしょう。
近江八幡で開祖の豊臣秀次以外で忘れてはならない人物では『ウィリアム・メレル・
ヴォーリーズ』がいます。ヴォーリーズはキリスト教の伝道師として明治38年(1905)に英語教師としてアメリカから滋賀県に来日し、近江八幡を拠点に活躍しました。伝道師よりも、ヴォーリーズは建築家として有名で、学校・教会・病院・住宅など多彩な約1600もの西洋建築物を日本各地に残しました。近江八幡の『市立資料館・本館』も彼の手によるものです。この建物は当初、近江八幡警察署として建てられたものです。実業家としては、近江兄弟社を創立させ、『メンソレータム』を広く普及させました。その功績により、青い目をした近江商人といわれています。
ヴォーリーズは昭和16年(1941)に日本に帰化し日本名で、一柳米来留(ひとつやなぎ
 
めれる)と名乗りました。その由来は『米国よりきて留まる』という洒落だったといわれています。
その名前の通り彼は、太平洋戦争をへて、昭和39年(1964)に83歳で亡くなるまで、近
江八幡市にとどまりました。現在、メンソレータム社の向かいの小公園にヴォーリーズの像が立っています。(つづく)

 
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