近江八幡
日牟礼(ひむれ)八幡宮の大鳥居をくぐって八幡宮の前を通り過ぎて、『八幡山ロープウェイ』で片道約4分の標高271メートルの『八幡山』に登ります。この『八幡山』は豊臣秀吉の養子の『羽柴秀次』(はしばひでつぐ)が築いた『八幡城』の城跡で、本丸跡には後年、羽柴秀次が自害したあとに、秀次の菩提を弔うため、京都から移築された『村雲瑞龍寺』が建っています。この山頂からは整然とした近江八幡の町並みや琵琶湖に通じる内湖である『西の湖』(にしのうみ)、織田信長の居城であった『安土城』跡など360度のパノラマが楽しめます。
記憶に新しいところでは『安土城』の築城物語を描いた昨年公開された映画『火天の城』があります。西田敏行主演で『山ひとつまるごと城にせよ/信長の厳命下る』のキャッチコピーが印象的でした。信長が本能寺の変で斃れたあと、信長亡きあとの安土の商人たちを呼び寄せ、楽市楽座制を敷き、近江商人発祥の地となり、いまの近江八幡の基礎を作ったのが『羽柴秀次』です。秀次はその最期から凡庸な人物のように思われていますが、秀次のあきらかな失敗は生涯ただ一度だけでした。
徳川家康と対決した『小牧・長久手の戦い』がそれで、天正12年(1584)3月から11月まで続いたこの合戦で、膠着した状況を打開するため、別働隊、約1万5千名を率いる大将として家康の本拠地の三河・浜松城を落そうとしたのです。秀次のこの動きは、家康にすぐに察知され、ほぼ同数の約1万6千名を率いて、あとを追います。
秀次は、まさか家康が背後から迫ってきているとは夢にも思わず、見張りも立てず、ガヤガヤと朝食をとっていました。そこを徳川軍に奇襲されたのです。秀次の本隊はたちまち壊滅状態になり、三番隊の『堀秀政(ほりひでまさ)』が辛うじてこれを支え、逆襲に転じようとしたところ血相を変えた秀次たちが逃げ込んできたため、ついに支えきれず、同じように潰走しました。ほうほうの体で逃げ帰った秀次は、秀吉に激しく叱責されます。秀次、弱冠17歳のときでした。(つづく)

 
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