殺生関白
この敗戦に懲りた秀次は、以後、補佐役として秀吉が派遣した有能な部下たちの意見をよく聞く様になり、大過なく、すごしました。近江八幡にあること5年、秀次は善政を敷き、領民たちから慕われました。天正19年(1591)には、正式に秀吉の後継者として、公家の最高位である『関白』の位を譲り受け、『豊臣秀次』と名乗り、秀吉が京都市内に建てた豪華絢爛たる政庁『聚楽第(じゅらくだい)』に入って、朝鮮との戦争に忙しい秀吉に代わって、内政を司ることになりました。
順風満帆に見えた秀次の人生が暗転したのは、文禄2年(1593)に秀吉の側室として有名な『淀君』が、秀吉の実子である『豊臣秀頼(とよとみひでより)』を生んでからでした。秀吉にしてみれば養子よりも、我が子に家督を継がせたいと思うのは当然で、内心では『しまった。秀次に関白職を譲るのが早すぎた』とひそかに後悔します。そして『せめて秀次が、秀頼のために自主的に関白職を返上してくれないものか』と真剣に悩み始めます。
ところが秀次にはまったくそんな気配はありません。関白職を譲り受けた自分こそが豊臣家の正式な後継者であると思い込んでいるからなおさらです。秀吉は次第に秀次が憎らしくなり、任せたはずの政務に口をつっこんでさまざまな嫌がらせを始めます。『太閤(たいこう・関白を譲った人の呼び名)は、おれを疎んじている』。義父である秀吉の手のひらを返したような冷たい態度に秀次は次第にやる気をなくし、自暴自棄になって行きました。酒色に溺れ、信じられないことですが、夜な夜な京の町に出没しては部下とともに『辻斬り』を始めたのです。秀次のこの行いは京の人々を恐怖のどん底に叩き込みいつしか『殺生関白(せっしょうかんぱく)』と呼ばれるようになりました。この噂はたちまち秀吉の耳に入り、関白職剥奪、秀次追放の絶好の口実を与えることになりました。文禄4年(1595)秀次は『謀反』の疑いをかけられ高野山に追放ののち、いまの金剛峰寺で切腹を命じられます。秀次28才の生涯でした。(つづく)

 
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