十和田丸 海峡をゆく
田名部駅11:52発の列車で、下北で大湊線に乗り換え野辺地に戻りました。
青春18きっぷはラストの5枚目の使用に入っていました。夜行列車や連絡船に何回も乗ったりと、周遊券顔負けの充分に価値のあるきっぷでした。野辺地からは東北本線13:48発の青森行き531列車に乗り、青森には14:39に着きました。ここから函館に戻るべく、14:55発の青函5便に乗船です。
『今回はどの船だろう』と期待に胸をはずませつつ乗船口に向かうと桟橋にオレンジ色の船体が見えました。連絡船はそれぞれ船体に異なったカラーの塗装が施されています。『もしやこのカラーリングは?』と思うと、やはり行きと同じ『十和田丸』でした。
まるで『おかえり』と言ってくれているようでなんだかとても気恥ずかしい気分です。
船はよく晴れた空の下、青森をあとにします。やってきた来た時と同じで、今日も『岩木山』が見えています。そればかりか遠ざかるにつれ航跡の彼方に『八甲田連峰』の雄姿までが見えています。夏休みの日曜日というのに船内の乗船度にはゆとりがありました。今回はいつもの椅子席ではなくカーペット敷きの座敷席を利用しました。幅わずか11キロの平館海峡をぬけて船は津軽海峡へと出ました。左手に津軽半島の山並みが見えています。石川さゆりが歌う『津軽海峡冬景色』の歌詞の中で「ごらんあれが竜飛岬、北のはずれと…」というくだりがありますが、正確には津軽半島最北端の竜飛岬は船からは見えません。やがて右手の水平線上に台地のような函館山と、渡島半島の活火山『駒ヶ岳』の美しい姿が見えてきました。青森から連絡船で函館へ渡る旅人がこの光景を見てはるばる北海道へやってきたと実感する瞬間です。
函館港口で僚船の『摩周丸』が夕日を浴びて停泊しています。のちに1988年の連絡船航路廃止後、函館港にて『青函連絡船記念館』として保存されることになる船です。やがて十和田丸は防波堤の赤灯台を巻くようにして港内に進みます。補助汽船の『かつとし丸』が接岸のため、いつものごとく忠犬のように寄り添ってきました。18:45。船は定時に函館に着きました。桟橋には連絡船『檜山丸』がつぎの出航に備えて待機しています。この檜山丸とは後年、和歌山の由良港にて不思議というしかない再会を果たすのです。連絡船『十和田丸』はその後、1988年の青函博にて約4ケ月間のリバイバル運航船に指名されたあと、日本旅客船株式会社によって約2億円弱で落札され、横浜〜神戸間を結ぶ片道料金ひとり最高約4万円の豪華クルーズ船『ジャパニーズドリーム』として大改造を受け、1990年3月24日に華々しく就航しました。当初こそ予約でいっぱいでしたが、やはりもと連絡船の悲しさか、改造に基本的な無理があったと見え、急速に客足が落ち、わずか2年足らずで運航終了となりました。その間に一度だけ、函館への『里帰り運航』を行っています。これが元『十和田丸』が函館を見た最後となりました。その後の十和田丸はあわれでした。フィリピンに売却され、自力でたどり着いた後、数年間カジノ・ホテル船として使用されたあと、納税不払いのため差し押さえの憂き目にあい、営業休止で放置されたあげく、スクラップとしてバングラディシュで解体されてしまいました。栄光はいつまでも続かない。その生涯はなにか人生に似て、春夏秋冬のはかなさを感じさせずにはいられません(おわり)。

 
1 2 3 4 5 6  道中記TOPへ
     
 

(c) 2005 Takahashi Satoshi. All Rights Reserved.