下北半島・尻屋崎への旅
昔から岬が好きで、いままで日本各地の岬をよく訪れました。そんな中でもこれから行く、下北半島の『尻屋崎』は僕のもっとも好きな岬のひとつです。
青森発10:16の1042列車で下北半島への玄関である『野辺地』に向かいます。揺られること約1時間強で野辺地湾の中心集落の野辺地に着きました。『のへじ』とはアイヌ語で、「ノンベチ」(野中を流れる清い川)に由来し、野辺地港はかつて江戸時代は南部藩の商港として北海道松前への渡航基地として栄えました。野辺地駅もJR東北本線時代には特急や急行などの優等列車が必ず停車し、交通の要衝としての存在感がありましたが、東北自動車道などの道路整備や、さらに2010年12月4日の東北新幹線全通によって新幹線が駅を経由しなかったため文字通りの通過地点となってしまい、路線も東北本線から第三セクターの『青い森鉄道』に移管されました。町の人口も減少気味2010年現在で1万5千人弱となっています。憶測をおそれず言うと、ひょっとしたら町の人口は江戸時代から減っているかもしれず栄枯盛衰を感じずにはいられません。
野辺地で列車から降りると、南部縦貫鉄道のレールバスが停まっていました。南部縦貫鉄道はその壮大な社名とはうらはらに野辺地〜七戸間の20.9キロメートルを結ぶミニ私鉄で、その所有する2両の『レールバス』は当時ここだけの珍しい車両でした。近づくと発車まで時間があるのか車内には休息中の運転士らしき人物のほかには誰も乗っていませんでした。南部縦貫鉄道は1997年に利用客低迷のため運転休止、そして2002年に廃止となっています。
終着駅の七戸駅付近には、先ほど全通した東北新幹線の八戸から青森の延伸区間に『七戸十和田』駅が設けられ、同社も新幹線全通によりアクセス鉄道となることを夢見て頑張っていたようですが、なにぶん新幹線がやってくるまで時間がかかりすぎ経営体力が持たなかったようです。野辺地11:31発の大湊線725Dで、大湊へむかいます。車内で下北の下風呂(しもぶろ)へ里帰りするという関西在住の男性と同席しました。下風呂はたいへん魚のうまいところで、夏はイカ釣り船の漁火がきれいだよと教えてくれました。温泉もあるしね、と付け加えました。野辺地を出たディーゼルカーは車窓左手に陸奥湾を眺めながら進みます。海辺で海水浴する人たちに車内から子供たちが手を振っていました。12:05『陸奥横浜』着。下北にもミナトヨコハマがあるのかと思いました。
下北駅で野辺地ゆき728Dと交換します。見ると『キハユニ26』型という車両半分が客室と荷物室に分かれているという変わった気動車を連結しており、見るのは初めてなので、停車時間にホームへ降りて、開いた窓から中を『うーむこれか』と覗き込んでいると、車内の荷物室のドアを開けてなんのためらいもなく乗客たちがどんどん乗り込んでゆくのにはびっくりしました。荷物室には当然のことながらイスがないはずで、どうやって中で過ごすのか不思議でした。またもし荷物が積んであったら盗難などに備えてその管理は誰がおこなうのかも疑問でした。
終着の大湊駅が近づくと車窓から港に日本初の原子力船『むつ』が停泊しているのが見えました。400億円もの資金を投じ、期待を受けて進水した『むつ』でしたが、1976年(昭和51年)9月1日に青森県沖での初の試験航行中に放射能漏れの事故を起こし、以後いわば『やっかいもの』扱いされ、16年間にわたって各地の港をさまよい続けた悲劇の船です。現在は原子炉は撤去され代わりにディーゼル機関が搭載され、船名も『みらい』として海洋研究開発機構で運航されているようです。
田名部川を渡って大湊駅に近づくと下北半島の最高峰『釜臥山(かまふせやま)』が見えました。標高879メートルながらドライブウェイが整備されたその頂上からは遠く北海道を望むことができます。夜景の名所でもあり、むつ市の夜景が美しいそうです。また霊場『恐山』を発見した慈覚大師『円仁』はこの山頂から霊気を感じ取り見つけ出したという伝説があります。
12:43。列車は終着『大湊(おおみなと)』に着きました。ここの改札の駅員さんはヒマを持て余しているようでした。駅舎付近の海岸には冬になると200〜300羽の白鳥が越冬のためやってくるそうです。ここからさらに『大畑線』に乗り換えて尻屋崎へのバスが出ている『田名部(たなぶ)』を目指します(つづく)。

 
1 2 3 4 5 6  道中記TOPへ
     
 

(c) 2005 Takahashi Satoshi. All Rights Reserved.