さいはての尻屋崎
大湊12:47発の大畑線825Dに乗って下北半島の観光拠点である『田名部』に行きます。乗車時間わずか10分ほどで12:59に田名部に着きました。2001年(平成13年)に廃止された大畑線は大湊線の下北駅で分岐して、下北半島を北上し、大畑町(現・むつ市)まで結ぶ全長18キロメートルのローカル線で、もともと本州最北端の町の大間にあった海軍の要塞強化のため建設が始められたものでしたが、太平洋戦争の戦局悪化のため工事は中断頓挫し、大間にはたどり着けぬまま途中の大畑までの部分開業となってしまいました。その後、本州と北海道を結ぶ青函トンネル計画が浮上し、津軽半島経由の『西ルート』と下北半島経由の『東ルート』のどらかを選択することになり、大畑線はふたたび脚光を浴びることとなりました。距離的には東ルートの下北半島『大間崎』と北海道『戸井岬』の間の約18キロメートルが西ルートに比べてわずかながら短く、有利に思われましたが、海底調査の結果、東ルートは破砕帯が多く地質が悪いことがわかり、結局トンネルは『西ルート』で建設と決まりました。もし仮に東ルート案が選ばれていたら、大畑線は廃止などされることなく存続していたはずで、ここでも明暗が分かれる結果となりました。赤字のため第一次特定地方交通線に指定された大畑線が、1985年(昭和60年)に国鉄によって廃止されると、地元のバス会社である『下北バス』が路線を引き継ぎ『下北交通』として再スタートを切りました。しかし当然のことながら経営はいぜん厳しく、車両の老朽化などがさらに拍車をかけ、前述のとおりついに廃止となってしまいました。僕が訪れたのは大畑線が国鉄によって廃止される前年の昭和59年ですが、駅の側線はすべて撤去されており、田名部駅も同様で、途中駅での列車交換ができないようになっていました。なんとかポイントなど少しでも施設を減らして経営改善に努力した跡がうかがえます。
下北半島は地図で見るとマサカリのような独特の形をしており、そのマサカリの柄の先端部分にあたるところがこれから行こうとしている『尻屋崎』です。上空から俯瞰すると岬はちょうど太平洋を突き刺すような感じです。岬へは夏季のみバスが入ります。そのバスは田名部駅から歩いて徒歩約3分のところにある『下北バスターミナル』から発車します。13:10発、尻屋崎ゆきのバスに乗りました。バスには10人ほどが乗り込みました。岬までは約1時間の行程です。岬の手前の尻屋の集落には埋蔵量20億トンといわれる石灰石の鉱山があり、鉱山内に専用鉄道が見えました。軽い?撮り鉄だった僕は、写真をとろうと身構えましたがとっさのことで間に合わず残念な思いをしました。『個人の想い』などかまわず疾走する車両からシャッターチャンスを逃さず写真を撮るというのは本当に難しいことなのです。バスは進行方向左手に海を眺めながら進んで行き、やがて白亜の灯台が見えてきました。14:12、バスは岬に到着しました。僕を含めて4人が下車しました。バスから降りて最初に注目を引いたのは長年の風雪に耐えてきたであろう岬の停留所です。路線図はかすれてほとんど読めません。ここから15:42発のバスで田名部に戻りました。『本州最涯地尻屋崎』と刻まれた石碑の前で記念写真を撮ってもらいました。この石碑は以前は『木碑』でした。
『尻屋崎灯台』は1876年(明治9年)に東北地方で初めての洋式灯台として点燈されました。この海域は海の難所として古来より難破船が多く恐れられたところでした。周辺には『寒立馬(かんだちめ)』と呼ばれる馬や、ほかに牛も放牧されています。この灯台を造ったのは『日本灯台の父』と呼ばれるイギリス人技師の『リチャード・ヘンリー・ブラントン』で、明治政府の招きで日本滞在中の約8年間に26基の主要灯台を設置しています。ブラントンの灯台は大小はあるにせよどれも洗練されたノスタルジックな美しさがあって好感が持てます。尻屋崎灯台は高さ約32メートル、光達距離は18海里(約34キロ)です。
この灯台には悲しいお話があります。太平洋戦争の末期の1945年(昭和20年)7月、灯台は数回にわたりアメリカ軍の艦載機による空襲を受け、その際に灯台の技手であった『村尾』さんという人が殉職してしまったのです。灯台は無残にも破壊され消灯したまま翌年(昭和21年)の夏を迎えました。このころから数名の漁師たちが『夜間に灯台の灯りを見つけて助かりました』とお礼に灯台職員を訪ねてくるようになったのです。また付近を航行中の船舶からも『灯台が点灯していたり消灯していたりしているがいったいどうなっているのか』という問い合わせが数多く寄せられるようになりましたがその原因はわからないままでした。8月になってようやく仮設の灯火が設置されるようになると、この怪光の目撃情報もパッタリと途絶えました。いまでも地元の人々の間では『殉職した村尾さんの霊魂が船を助けるため点燈してくれたのだ』という説が信じられています。尻屋崎灯台の本格的復旧は1951年(昭和26年)6月のことでした(つづく)。

 
1 2 3 4 5 6  道中記TOPへ
     
 

(c) 2005 Takahashi Satoshi. All Rights Reserved.