霊場恐山への旅
尻屋崎からバスで戻ってこの日は田名部町の旅館に1泊しました。ちょうどこの時期、漫画雑誌『週刊少年ジャンプ』に前年から連載が始まった『北斗の拳』にのめりこんでいて、旅館に着くとバックからジャンプを取り出し夢中になって読んでいたことを思い出しました。このころの物語は『トキ』の偽物『アミバ』と主人公『ケンシロウ』との対決シーンでした。アミバ流北斗神拳が通じず、怒り爆発のケンシロウに連打を浴びて倒されるところがものすごい迫力で何回も読み返したものでした。
明けて8月19日日曜日、旅館の人に車で田名部の駅まで送ってもらいました。今日はこれからバスで日本三大霊場のひとつ『恐山』に向かいます。恐山は862年(貞観4年)に天台宗の僧でありのちの天台宗第三代座主の慈覚大師『円仁』が、遣唐使として在留中に夢のおつげ、によってものすごい苦労をして発見し、創建したところです。円仁は東北、関東を中心に約700ケ所もの寺院を創設、または再興しました。円仁が約9年半の在唐中の出来事を綴った紀行文『入唐求法巡礼行記』はマルコポーロの『東方見聞録』や玄奘(三蔵法師)の『西遊記』と並んで、世界三大旅行記のひとつと言われています。
この円仁の旅行記によると徒歩で中国国内を約1000キロを移動した話などが出てきて、かなりの健脚の持ち主だったことがわかります。円仁に限らず、昔の高僧というのは全国各地に布教に行くためには健脚である、というのがひとつの条件でした。
円仁が恐山を開山して約600年後にこの地を治めていた南部氏の家臣である蛎崎(かきざき)氏が『蛎崎の乱』と呼ばれる反乱を起こし、恐山も兵火に焼かれ一時閉山という事態に見舞われました。余談ながら蛎崎氏はひとしきり暴れたのち蝦夷地に逐電し、のちの松前氏となりました。恐山はその後、1522年(大永2年)に曹洞宗の僧『聚覚(じゅうかく)』が南部氏の援助を受けて、円通寺を建立して、『恐山菩提寺』として再興し、現在に至っています。
田名部駅8:40発の恐山ゆきの下北バスは所要時間わずか40分ながら冷房完備でバスガイド付きという豪華なものです。バスは途中、不老長寿の冷泉といわれる清水が湧く冷水峠の『冷水停留所』で5分間休憩します。ここは怪談話の多いところで、当時も田名部町の住宅火災で亡くなった母子の幽霊がたびたび目撃され話題となっていました。なんでも火事の苦しさから逃れるため夜な夜な水を飲みに現れるのだ、という説がまことしやかに囁かれておりました。
恐山山門で料金500円を払って中に入ります。恐山といっても単独峰の名前ではなく、宇曽利湖(うそりこ)を中心として周囲を囲む8つの峰のこの地域の総称をいいます。三途の川にかかる赤い太鼓橋があって死者はこの川を渡って恐山に入るといいます。入り口からまっすぐ進むと『地蔵堂』と呼ばれる恐山の中心となる建物があって、死者の霊を呼んでくれるという有名な霊媒『イタコ』は夏の恐山大祭と恐山秋詣りのときにだけ居り、いつでもいるというわけではありません。夏の大祭は毎年7月20日から24日なので僕が訪れた時には不在でした。『大師堂』は子供や水子の霊を祀っているところで、堂内には子供のおもちゃや衣類などがところ狭しと並べられていて思わず引いてしまいました。四十八灯の並ぶ参道を振り返ると、正面に下北半島の最高峰『釜臥山』の山頂が見えていました。慈覚大師円仁がこの山の山頂からこの地を発見したという説の根拠がわかるような気がしました(つづく)。

 
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