青蓮院
明治維新、最大の功労者は『徳川慶喜』であるという意見があります。
鳥羽・伏見の戦いで敗れ江戸に逃げ帰ったとはいえ、慶喜のもとには俗にいう『旗本8万騎』(実際は5万程度)と呼ばれる徳川家の直轄兵力があり、その気になりさえすれば、いまだ微弱な新政府軍など鎧袖一触に打ち破ることが可能でした。しかし慶喜はそうはせず、勝海舟に事後処理をまかせるとさっさと謹慎・蟄居してしまったのです。
いわば投げ出した形になり、これにより薩摩・長州藩をはじめとする新政府軍は最大
のターゲットを失い、おかげで最終的に京都守護職を務めた会津藩松平家がいわば生贄として会津戦争を戦わさせられる羽目に陥りました。
慶喜が徹底抗戦しなかった理由はいまだはっきりわかりませんが、『賊徒』や『朝敵』呼ばわりされるのが嫌だったからとか、内戦が長く続くことにより、イギリスやフランスなどの諸外国の介入を招き、日本が植民地化されるのを防ぐためだったとか言われています。ともあれ結果的に、旧幕府勢力と新政府軍との戊辰戦争は短期間に終わり、明治新政府は順調にスタートしました。のちに明治天皇も慶喜の抗戦せず、という決断を評価し、貴族の最高位である『公爵』の位を授けています。
静岡に隠棲した慶喜は『ケイキさま』と呼ばれ悠々自適の生活をおくり、大正7(1913)に77歳の生涯を閉じています。これは歴代徳川将軍のなかで最高齢でした。
二条城前の京都国際ホテルで休息と軽い軽食ののち、東山に移動し、暗くなるのを待ちました。東山花灯路の起点である『青蓮院(しょうれんいん)』は18時の開門を待つ人々ですでに長い行列ができていました。時間となり中に入ると、ライトアップにより幻想的な光景でした。暗闇の中、大勢の人が動き、見とれていると前の人にぶつかりそうです。このあと知恩院に向かいました。(つづく)

 
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