2010京都東山花灯路
2010年3月13日(土)京都『東山花灯路(ひがしやま はなとうろ)』に行ってきました。
2003年から始まったこの光のイベントは、京都・東山の青蓮院から清水寺までの約5キロの区間で約2400基の露地行灯と10箇所のいけばなプロムナードで彩られ、散策路沿いの神社・寺院でもライトアップと夜間特別拝観が行われるというもので、期間は10日間ほどですが、毎年約100万人もの人出で賑わいます。
いわば夜の散策ですが、せっかく京都まで行くのですから、明るいうちから行ってどこか1ケ所でも見学してから暗くなるのを待ってから行こう、と思い立ち天王寺駅から関空特急『はるか』に乗って京都に行きました。
1994年の関西空港開港に合わせて登場した特急用281系電車は、基本的に『はるか』専用電車として作られ、車内は禁煙のため車端部に『喫煙コーナー』が設けられました。
基本は6両編成で運転され京都⇔関西空港間を約1時間30分で結んでいます。一部は滋
賀県の草津や米原まで足を延ばしています。南海電鉄の空港特急『ラピート』のよきライバルですね。車内で天王寺で購入した『駅弁』で昼食をとり、しばらくするとアッという間に終点の京都に到着です。京都駅では一時『はるかホーム』と呼ばれていた、切り欠け式の『30番ホーム』に着きます。
お隣は山陰本線の31番ホームで城崎温泉ゆきの特急『きのさき』が発車を待っていました。山陰本線用のホームは31番から34番まであります。この34番線というのは、JRの駅ではもっとも数字の大きい番線ですが、なにも1から34までホームがあるというわけではなく、山陰本線の『さん』にちなんだネーミングです。
京都駅で地下鉄『烏丸線』に乗り換えました。いまはそうでもないですが、毎年秋の紅葉シーズンなどは券売機の前は切符を購入しようとする観光客で長い行列待ちができるので、そういう場合は『スルッとKANSAI』を利用します。これを使えば券売機の行列など関係なくスマートに自動改札機をスルーできます。途中『烏丸御池』で地下鉄『東西線』に乗り換えて『二条』で降りて世界遺産『二条城』にいきました。
二条城は、徳川幕府発祥の地であると同時に、終焉の地でもあります。はじめは慶長8年(1603)に徳川家康が京都守護と将軍の宿泊地として造営しました。ここで家康は、征夷大将軍就任の祝賀の儀を行い、以後264年にわたる徳川幕府による江戸時代が始まりました。『東大手門』をくぐると、すぐに『唐門』があり、国宝の『二の丸御殿』があります。部屋数は33、畳は800畳という広大さです。慶長16年(1611)、二条城で徳川家康は豊臣家の後継者である『豊臣秀頼』と会見、その成長ぶりに目を見張りました。
当時、秀頼は18歳でなにか父親の秀吉ゆずりの威厳のようなものを備えつつあったようで、当初は豊臣家を一大名として存続させる方針だった家康ですが、この会見で『もしこのまま秀頼が成長していくと天下を奪回されるかもしれない』と危機感を抱き、なにがなんでも豊臣家を滅亡させねば、と思うキッカケになった会見といわれています。この会見から4年後の『大阪夏の陣』で大阪城は落城、豊臣家は滅亡します。
世界遺産ということもあり、二条城には数多くの外人を見かけます。そのうちのひとりの人に『写真をとって下さい』と頼まれ、二の丸御殿をバックにデジカメのシャッターを押しました。はいどうぞと渡すとデジカメのモニターを見て『パーフェークト!』と喜ばれました。
二の丸御殿の『大広間』が、徳川幕府15代将軍の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が『大政奉還(たいせいほうかん)』を発表した場所です。
この慶応3年(1867)の10月14日に起きた政治事件『大政奉還』は日本国の統治権を朝廷に返上いたします、というもので家康の再来と呼ばれた徳川慶喜のファインプレーでした。これにより先手を打たれた形の討幕派の薩摩・長州藩は、討幕の名目を失なったからです。
しかしいくら政権をかえしてもらったからといって、当時の朝廷には資金も政権運営の能力もありませんでした。結局、困り果てた朝廷は、これから新しくできるであろう新政府においても、徳川家の力に依存せねばならない、徳川家は引き続き新政府においても重要なポジションを獲得することができる、というのが徳川慶喜の読みでした。しかしそれではいくらたっても新政府は徳川家から脱却することはできません。焦りに焦った討幕派の薩摩・長州藩は朝廷に働きかけ、同年12月9日に天皇親政を宣言する『王政復古(おうせいふっこ)』の大号令を発令します。これには江戸幕府の廃止、がうたわれ、さらに『辞官納地(じかんのうち)』という徳川慶喜の内大臣辞任と幕府領の放棄を迫りました。要するに新政府は無一文なのでこのままではなにもできないので徳川家の持っている財産を全部こちらへよこせ、という乱暴なものです。
それでも慶喜は挑発に乗らずはいはいと従う意向を示していましたが、一気に武力クーデターで幕府を打倒したいと思っている薩摩・長州藩は江戸市街において焼き討ちなど挑発的な破壊活動を行い、ついに慶喜の我慢も限界に達して、翌年慶応4年(1968)/明治元年の1月3日から1月6日の『鳥羽・伏見の戦い』へと発展していきました。
以後1 年間にわたる内戦『戊辰戦争(ぼしんせんそう)』が始まり、戦場は江戸市街の上野戦争、北越戦争、会津戦争、そして北海道の箱館戦争へと北上してゆきました。
(つづく)

 
1 2 3 4 道中記TOPへ
     
 

(c) 2005 Takahashi Satoshi. All Rights Reserved.