松前氏
将軍山は松前城の裏手にある山で、江戸時代から続く四国88ケ所霊場めぐりのコースが整備されています。遠く『四国88ケ所』の土砂が実際に埋められています。山からの眺めは、松前八景のひとつといわれ、市街地のほか、北海道最南端の白神岬も見えています。静けさに包まれた山にはセミの声だけが響いていました。海岸に出ると、松前港と白神岬の眺めがいいです。港の遠くに見える島は弁天島です。白神岬は対岸の本州の津軽半島竜飛岬とはわずか19キロしか離れておらず、これが青函トンネルの採掘に選ばれた理由です。法幢寺(ほうとうじ)は、松前家の菩提寺で、『松前藩公歴代墓所』があります。松前藩の始祖、武田信弘から19代に至る松前家一族が祀られています。藩の始祖の武田信広(たけだのぶひろ)は若狭の守護大名であった武田信賢の子で1431年に生まれ、21歳の時に若狭を出奔すると各地を転々とし、下北半島より当時『蝦夷地』と呼ばれた北海道へ渡り、この地方の有力豪族であった蛎崎季繁(かぎざきすえしげ)の元に客将として身を寄せました。その後、1457年に和人との不公平貿易などに怒ったアイヌ民族による一斉武装蜂起、酋長『コシャマインの乱』が起こると追い詰められ劣勢だった日本武士団を、智謀を生かして指揮して反撃に移り、つぎつぎとアイヌ軍を撃破し、ついには総大将のコシャマインをも討ち取りました。この乱を平定したことにより和人のアイヌに対する絶対的な優位な位置をを確立しました。その後、蛎崎氏の養子となりあとを継いだ信広は、蛎崎信広と名乗り64歳で死去しました。
松前氏が自分たちの領地を認めてもらうため、天下人の豊臣秀吉に謁見したのは、5代目の蛎崎慶広(かきざきよしひろ)の時でした。天下統一の過程で関東の北条氏を降し、会津までやってきた秀吉は、事後処理として前田利家をはじめ数人の武将たちを残し、
このとき津軽までやってきていた利家のもとにはるばる津軽海峡を渡って当時40歳代だった慶広が会いに来たのです。このまま慶広は京都に上って聚楽第で秀吉に謁見しました。秀吉は喜び、官位を与え、所領も安堵しました。さらに文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮との戦争が始まると、慶広は慰問のため、九州の肥前名護屋城まで秀吉に会いにゆき、さらに喜んだ秀吉は蝦夷地におけるアイヌとの関係についてはすべて松前氏を通さねばならないとする資格をあたえました。
のちに徳川家康にも気に入られた慶広は、アイヌとの取引は松前氏の許可なしにしてはいけないという交易権まで手にいれ、このとき名前を蛎崎から徳川氏の旧姓である松平の『松』と自分を秀吉に引き合わせてくれた恩人である前田利家の『前』からとって『松前慶広』と改名したのです。松前氏の墓所は五輪塔を屋形風の覆いが囲むという独特のもので、とても珍しいものです。キリシタンとの関連がある十字形が刻まれた墓碑もあり、これについてはなんの記録ものこっていないのでよくわかりませんが、
松前藩はキリシタン蜂起の島原の乱が起きるまでキリスト教に寛容だったこともあり、さきの千軒岳の砂金場におけるキリシタンの大量処刑となんらかの関係がありそうです。
『法源寺』の山門と経堂は、室町時代建築の北海道最古といわれるの建物です。
『光善寺』の境内には名木『血脈桜』が伝わります。
その昔、本堂修理のため境内にあった大木の八重桜を切り倒そうとすると住職の夢枕に桜の精があらわれ『どうか極楽浄土にゆく証文(血脈)を与えてくれ』と言ったため驚いて中止したという伝説がつたわります。
ひととおり城下を回って駅に戻ると、『城下時代まつり』と思われる祭りに出くわしました。道南三大夏祭りのひとつといわれていることを知ったのは後日のことでした(松前線編おわり)。

大阪府 S様

 
1 2 3 4  道中記TOPへ
     
 

(c) 2005 Takahashi Satoshi. All Rights Reserved.