日本最北の城下町
12:15。『及部(およべ)』駅着。次がいよい終点の松前です。12:20。列車はついに終点の『松前』に到着しました。函館から約2時間30分の列車の旅でした。松前に着いたディーゼルカーはこのあと約40分後の13時05分発の函館行き4830Dとなって、出発まで駅で小休止をとります。駅は小さいながら小奇麗な建物で、駅前に『北海道最南端の町』の碑が立っています。駅スタンプを押し、窓口で入場券を購入しました。城下町めぐりをしようと思い、まずここから徒歩で約15分の松前城に行きました。松前城は日本式の城郭としては最後のもので、北からのロシアからの脅威に備えるため幕府が命じて、もともとあった松前藩の館を取り壊して、幕末の1854年(安政元年)に建てられたものです。築城に際し、あまりにも海に近いため、有事の際に軍艦からの艦砲射撃にさらされる恐れがあり、依頼された上州高崎藩の兵学者『市川一学』という人が、もっと内陸部に移したほうがいいですよ、と進言したのですが、藩主以下がどうしてもほかに移りたくない、と固持したためやむなくこの地に築城しました。松前藩は伝統的に海からの攻撃より、背後からの内陸部からの北海道の先住民族であるアイヌからの攻撃を恐れるところがあり、おそらくここならばアイヌたちの攻撃を受けてもすぐに海上に逃げ出せるという計算があったためと思われます。事実、1858年(明治元年)に旧幕府軍を率いて函館に拠った『榎本武揚(えのもとたけあき)』の別動隊である新撰組生き残りの『土方歳三(ひじかたとしぞう)』らがこの城を占領しましたが、翌年明治2年に新政府軍の軍艦5隻が松前沖にあらわれ、一斉に艦砲射撃を加えるとあっという間に落城してしまいました。そのときの砲撃の弾痕がいまでも石垣に残っているといいます。現在の天守閣は昭和35年に鉄筋コンクリート製で再建されたものです。天守閣に登ると、さきほど函館乗ってきたディーゼルカーが、ふたたびとんぼ返りしてゆくのが見えました。
松前藩は米は採れませんでしたが、松前問屋といわれる海運を使って、北海道の海産物や工芸品を内地に出荷して大いに栄えました。そこから得た富を使って、逆に本州からいろいろなものをせっせと運び込んで移住してきた故郷の本土に類似させようとしました。そのひとつが桜であり、現在の松前が北海道随一の桜の名所と言われるのも、過去の松前藩の努力によるものです。『桜資料館』を見学しましたが、松前公園や寺町一帯には約250種7000本の桜がある、というのには驚かされました。このあと将軍山〜松前家藩公墓所〜法源寺〜法幢寺〜光善寺〜駅へし回りました(つづく)。


 
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