冬の南東北、仙台駅での邂逅まで
東北編第2弾は、同じ年の年末から正月にかけてふたたび高橋君と東北に出かけたものです。といっても正月あけの仙台駅まではお互い自由行動で、この記録は高橋君と昭和61年1月2日に雪の仙台駅で合流するまでのものです。
僕は仙台駅での邂逅を楽しみに、昭和60年(1985)12月31日、大晦日の晩に、大阪駅から新潟行きの夜行急行『きたぐに』で東北へと旅立ちました。乗車券は『みなみ東北ワイド周遊券』を利用しました。現在は『周遊券』は大きく制度が変わっていまして新名称を『周遊キップ』といって目的地までの自由周遊区間(ゾーン券)にゆきとかえりの乗車券をセットにしたセミオーダータイプです。北海道・四国・九州では往路・復路のいずれか片道に航空機を利用することも出来ます。なお残念ながら東北地方の周遊キップは不人気のため整理されてしまい現在は販売されていません。
『きたぐに』の車内で新年を迎えたあと、新潟県の新津駅で下車し、ここから磐越西線の快速『あがの』で会津若松へ向かいます。乗車2時間あまりで車窓左側に雪化粧した磐梯山が見えてくると10:45に終点の会津若松に到着です。駅では新年を祝う門松がお出迎えです。駅前には『白虎隊』の像が建っていました。会津若松城に行って見ようと思いコインロッカーに荷物をあずけて元日の市内を歩き出しました。郵便局の前を通ると年賀状の『昭和61年元日配達出発式』と書かれた横断幕の看板を見ました。ああテレビでよく見るやつだなと思いました。歴史のある城下町らしく古い土蔵造りの商家をよく見かけました。『会津酒造歴史館』に入ると甘酒のふるまいをやっていて暖まろうとついたくさん頂きました。お礼に酒造の当主の宮森家にちなんだ『宮泉』という地酒を購入しました。
途中、幕末の戊辰戦争の官軍の戦死者の墓がある『融通寺』、会津藩の筆頭家老であった『西郷頼母』邸跡などを見学しました。幕末の戊辰会津戦争は白虎隊をはじめ多くの悲劇を生み、この西郷邸では官軍が城下に殺到し、西郷頼母(さいごうたのも)が若松城に籠城したあと、残された妻・千重子がもはやこれまでと一族21人とともに自刃をとげました。これには現場に飛び込んだ官軍の兵たちもおもわずて手をあわせたそうです。ほかの重臣の家族も敵の手にかかるよりはと潔く自刃をとげています。戊辰戦争で徳川の親藩であった会津松平家が官軍の『朝敵』として悲劇的結末を迎えたのは、尊皇攘夷を主張する浪士たちが横行して無政府状態に陥った京都の治安を回復するため『京都守護職』に任命されたからです。本来、京都守護は彦根藩『井伊家』の役割でしたが、大老『井伊直弼』が桜田門外の変で暗殺されてしまい政治どころではなくなり徳川御三家をはじめ徳川親藩も逃げ出すなかで『至誠』を信条とする会津藩主『松平容保』(まつだいらかたもり)にその任が廻ってきたのです。
京都守護職の拝命には家臣の多くが『この時勢に守護職の拝命などは薪を背負って火中に飛び込むようなもの』と大反対しました。最期の将軍『徳川慶喜』の説得に負けて、拝命したとき家臣の多くは『もはや会津の運命もこれまで』と号泣したといいます。『徳川慶喜』自身はその後、勝海舟に全権をあずけさっさと駿河(静岡県)に隠居してしまったのだからヒドイい話ですね。(つづく)

 
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