女郎子岩
美国から余別ゆきのバスに乗り換え、積丹岬遊歩道の東側の入り口のある『幌武意(ほろむい)』で降車します。北海道にはアイヌ語の地名がたくさんありますが、幌武意もそのひとつで、『ポロムイ』(大浦・大江)に由来する漁村です。和人の入植は天保年間(1830〜44)といわれ近郊の漁村と同じくニシン漁で賑わいました。
岬への遊歩道は、バス停から国道を歩いて2キロほどのところにあり『積丹岬遊歩道出入口』と書かれた案内板が立っていました。入ってしばらくは樹木が鬱蒼と茂り、まったく視界が開けません。約30分ほど歩いて原生林を抜けるとようやく眺望のよい海岸台地に出ました。右手に粗削りな『マッカ岬』の断崖が見えています。ここからは遊歩道終点の島武意(しまむい)海岸までひたすら海岸台地の上を歩きます。台地上にササが多いのは燃料用に木を切り倒しすぎたのと、数回の山火事が原因です。そのために展望が良く、絶えず右側に東海岸の絶景を眺めながら歩くことができ気分爽快です。
途中のベンチで苦労しながらカメラの自動シャッターで記念撮影をしました。天気の回復とともに暑くなってきて、汗が吹き出しついでにシャツも交換します。あたりにはだれもおらず大自然を独り占めしたような得意な気分になってきました。しかし、後日になっていや十数年後になってようやく気づいたことですが、このときは北海道に住む『ヒグマ』たちのことをすっかり忘れていました。北海道のヒグマは道東の知床半島がもっとも生息数が多く、あと道央の大雪山系や日高山脈などが多い地域ですが、積丹半島も立派?なヒグマの生息地帯であり、この遊歩道周辺でもしばしば目撃情報があり、その都度、注意喚起情報があったことを知りました。
当時ヒグマの存在などはこれっぽっちも念頭になく、トウガラシ入りの熊撃退スプレー(この時代はまだありませんでしたが)はおろか必須アイテムの『クマ除けの鈴』さえ携行しておらず、もし仮にバッタリ出会っていたとしたら助けを求める人のいない山中で人知れず一方的に撲殺されていたと思います。
あまりの無知さにいま思い出してもゾッとします。昔から巷間でよく言われるように『知らない』あるいは『知りませんでした』ということは本当に強いものですね。
積丹岬遊歩道のいちばんの見どころは海辺にそそりたつ奇岩『女郎子岩』(じょろこいわ)です。伝説があり、鎌倉時代に兄の源頼朝の追討からはるばる北海道まで逃れてきた源義経がこの地で傷つきついに倒れてしまいました。これを介抱したのがこの地のアイヌ酋長の娘の『シララ姫』です。姫の必死の介護の甲斐あって義経の傷はみるみる良くなり、姫は義経に次第に恋心を抱くようになりました。
やがて別れのときが訪れ、旅立てるまでに回復した義経一行はひそかに舟にのって沖合へと去っていきます。これに気づいたシララ姫は後を追い、追い切れないと悟ると断崖から身を投じ、高波に呑まれてしまいました。その刹那、姫の身体はたちどころに岩に変わってしまい、以後この岩はシララ姫の化身として『女郎子岩』と呼ばれています。
確かに見る角度によっては着物の裾を引く女性のようにもうかがえます。初夏になると岩の頭の部分に百合の花がまるでカンザシのように可憐な花を咲かせるといいます。
岩を眺めていると突然ものすごい強風が吹きあがってきました。潮風に乗って悲恋に終わった姫の悲しみが伝わってくるようでした。
女郎子岩をあとに歩いてゆくとやがて白浜の千畳敷のような平べったい岩のある海岸に出ました。『笠泊海岸』といい、冬になるとアザラシがやってくるそうです。
ここまでくると遊歩道の彼方に積丹岬の灯台が見えてきました(つづく)。

 
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