会津若松をあとにバスは、猪苗代湖へと向かいます。ここでイルカの形をした各地の大きな湖でよくみかけるタイプの遊覧船で猪苗代湖の湖上遊覧をします。遊覧時間は約40分ほどだったと思います。
猪苗代湖は福島県の中央に位置する東北地方で最大の湖で、全国でも4番目の広さがあります。晴れた日には磐梯山の姿をくっきり映し出すことから別名を『天鏡湖』といい、冬にはハクチョウが飛来します。この日は風があり曇りがちながら、湖上から磐梯山(1849m)を仰ぎ見るこどができました。この磐梯山は南側が『表磐梯』、北側が『裏磐梯』と呼ばれます。かつては富士山のような美しい姿をしていましたが、幾度かの大爆発により山体が崩壊し周囲が陥没したり河川をせき止めたりして、猪苗代湖やこのあとに行く、五色沼をはじめ大小さまざまな湖が作られました。こうして山を眺めていると自然と福島県民謡の『会津磐梯山』のメロディーが浮かんできます。
湖から上がって程なくで『野口英世記念館』に到着です。周知のとおり現行1000円札の肖像画にもなっている野口英世は世界的な細菌学者で、明治9年(1876)にここ猪苗代湖のほとりの村で生まれました。『生家』というのが残っており、博士が、1歳6カ月のとき母親の『シカ』が洗い物をしている最中に、誤って囲炉裏に落ちて左手の5本の指がくっついたままになるという大火傷を負いました。これは誰しもが知っている野口英世の伝記の有名なエピソードのひとつで小学校にいくようになると、くっついた左手のことで『てんぼう』といわれいじめにあいました。この負傷により農作業には不向きなため母のシカに学問によって生計をたてるように薦められたといわれています。
のちに左手は障害を嘆く野口英世に同情した教師や同級生などの募金活動により手術費用が集まり、会津若松の医師『渡辺鼎』のもとで手術を受け、不自由ながらも左手の指が使えるようになりました。医師をめざすきっかけはこの手術にあったといわれています。その後、アメリカに渡り主としてロックフェラー医学研究所で研究に従事し、医学博士となり、昭和3年(1928)5月アフリカのガーナで黄熱病の研究中に自らも罹患し、51歳で亡くなりました。 記念館にある野口英世の『胸像』はロックフェラー財団から贈呈されたものです。
記念館をあとにバスは裏磐梯の磐梯高原へとすすみます。ここでは観光名所の『五色沼』に立ち寄りました。ここには徒歩1時間ほどの探勝路があり気ままに散策したいところでしたが定期観光バス利用ということもあり五色沼では最大の『毘沙門沼』だけの散策になりました。エメラルドグリーンの湖面と磐梯山の景観が美しいところです。バスはスカイラインを通って浄土平へ進みます。途中、磐梯吾妻レークラインの最高地点997メートルは『三湖パラダイス』と呼ばれ『秋元湖』『小野川湖』『桧原湖』の3つの湖を見渡せます。ただしバスは減速するだけで停まってくれないので窮屈な写真しか撮れませんでした。この地方はたびたび豪雨被害に襲われている地域で、この年の8月の豪雨被害で落下した大倉川橋は片側通行になっていました。このとき数台の車が巻き込まれたとの事です。
『浄土平』は磐梯吾妻スカイライン最大の見所で、標高は1600メートルで荒涼とした景観です。ここでは徒歩10分ほどで死火山の『吾妻小富士』に登れます。合計40分ほどでアリ地獄のような噴火口のふちに沿ってあるくことができます。こうして17時すぎに福島駅到着にて定期観光バスの旅は終わりを告げました。(つづく)

 
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