会津若松へ
1989年(平成元年)9月29日(金)〜10月01日(日)、大阪駅から新潟行きの夜行急行『きたぐに』に乗って、初秋の会津若松と那須に行って来ました。
『きたぐに』は世界初の寝台電車である『583系』を使用した唯一の定期列車です。きたぐにはかつて大阪〜青森間を走る長距離夜行急行でしたが、1982年の上越新幹線の開通により、新潟以北の運転を取り止め、現在に至っています。湖西線経由で同じ北陸本線を走るサンダーバードや日本海などと違い、米原経由なのも大きな特徴です。ヘッドマークには『佐渡おけさ』を踊る人が描かれていて旅情をかきたてます。座席車も連結されていますが、三段式のB寝台車はその中央通路式の『ブルマンスタイル』の様子から『カイコ棚』などとも呼ばれ、上段と中段は天井が低く居住性がイマイチですが、下段は寝台幅が106センチ(上段・中段とも70センチ)もあり広く快適です。下段だけが広いのは4人がけのボックスシートとして昼間使用時の列車に利用するためのものであり、現に以前『雷鳥』号に使用されていた583系電車に乗車したことがあります。しかしボックスシートは向かい合わせになるため他人との同席が敬遠されがちで評判は良くなかったようです。やはり二兎追うものは一兎も得ずで、夜は寝台として使い、昼は座席として使うのは無理があったようです。ともあれ、社会人になってから『きたぐに』も仕事がおわってからの、旅行によく利用した夜行列車のひとつです。出発時間が遅い(当時は大阪23:20発)のも理想的でした。
翌朝、新潟県の『新津』駅できたぐにと別れ、新津を8:37発の快速『あがの』で会津若松に向かいます。快速『あがの』は磐越西線を走ること約2時間で福島県の会津若松に到着です。会津若松に近づくにつれ車窓からは、会津磐梯山の雄姿がみえてきました。会津若松駅で押した駅スタンプには『白虎隊と鶴ケ城の駅』との文字が入っていました。
ここから11:00発の会津バスの『第2スカイライン号』に乗車します。まだ紅葉の時期に早いせいか乗客は定員の半数程度でした。バスはまず会津藩の藩校であった『日新館』を見学します。有名な徳川御三家につぐ『御家門』という家格をもっていた会津藩松平家は教育熱心な藩として知られ、日新館は今日の小学校から大学にまでいたるまでの施設で、学問のほか、武は兵学・弓道・刀術・水練にまで及び、その水準は他藩に比べて群を抜くものでした。幕末の戊辰会津戦争の白虎隊を紹介するコーナーでは日本テレビの年末時代劇『白虎隊』の主題歌に使われた堀内孝雄の『愛しき日々』が繰り返し流されていて、テレビドラマの最後の悲惨なシーンを思い起こして思わず目頭が熱くなりました。
ちなみに会津藩は戊辰戦争で明治新政府軍に徹底抗戦したため、恨みを買い、福島県が創設された際に、本来なら県庁所在地となるべく会津若松市に県庁が置かれず、いわば嫌がらせのようなかたちで当時はいまだ未開発だった『福島』に県庁が定められたという説があります。司馬遼太郎の著作『歴史を紀行する』によると、このときの会津の人たちの怒りはものすごく、とくに明治新政府の中心だった長州、山口県を毛嫌いし、山口市から幾度か幕末のお互いの不幸な出来事は忘れて『姉妹都市になりましょう』との提案をいまだ拒絶し続けているそうです。(つづく)

 
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