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翌日、前夜泊まった『松原荘』の人に木津駅まで送ってもらって豊岡駅に出て、ここから全担バスで但馬の小京都として名高い城下町の『出石』を目指します。
豊岡駅では構内にラッセル車の姿をみました。前夜は高橋君とどうも飲みすぎたようで、僕はもともと酒には強くないほうので、しばらくすると気分が悪くなり、せっかくのカニすきをほとんど戻してしまったのは残念でした。
出石はバスで約30分ほどの距離にあります。はじめに室町時代に山名氏が開き、江戸時代には仙石氏5万8千石の城下町としてさかえました。石高だけなら泉州・岸和田藩とほとんど変わりませんね。ちなみに箱根にある『仙石原』という地名は仙石氏中興の祖とされている『仙石秀久』(せんごくひでひさ)にちなんでつけられたものです。世にいう、小田原城に籠る北条氏を攻めた『小田原の役』で、この仙石原で秀久は、九州征伐における豊臣軍の先鋒の司令官として島津軍に大敗(戸次川の合戦)して秀吉に所領を没収されるという失地回復の場を与えられ奮戦しました。豊臣軍の先陣を進んだ秀久は、汚名挽回によほど必死だったのでしょう。着用している陣羽織一面に鈴をぬいつけるという、いわば『鳴る服』という目立つことのおびただしい奇抜な格好だったといわれています。
この仙石秀久の物語は、宮下英樹著作の『センゴク』という漫画作品にもなっていて講談社から出版中です。高橋君と二人で、出石のシンボル『辰鼓楼』や出石城跡、出石唯一の洋風建築である『明治館』、桂小五郎(のちの木戸孝允)潜居跡、足軽長屋、たくあん漬けで知られる沢庵和尚ゆかりの『宗鏡寺』などを精力的に歩いてみてまわりました。
豊岡駅にもどり山陰本線の普通列車で『余部鉄橋』に向かいます。『余部鉄橋』は山陰本線の鎧駅と余部駅の中間にかかる日本一の『トレッスル式』の鉄橋です。明治45年(1912年)の完成まで約2年半の歳月と延べ25万人の人員が投入されました。高さは41メートル長さは311メートルです。橋上を渡る列車からは日本海が見渡せます。この橋は、その独特の造形美と鮮やかな朱色の組み合わせによりかねてからファンの多い鉄橋でした。
運行における弱点は日本海からの強風に弱い点でした。昭和61年(1986年)12月28日にあの忌まわしい『余部鉄橋列車転落事故』がおきました。香住駅から浜坂駅に回送中のお座敷列車『みやび』が日本海からの突風にあおられて、橋の中央部付近から牽引していた機関車を残して、7両全部の客車が転落したのです。客車は橋の真下にあった水産加工工場を直撃し作業していた従業員5名と乗務中の車掌1名の計6名が死亡、ほかの従業員5名と客室内にいた車内販売員1名の計6名が重傷を負うという大惨事になりました。昭和63年10月、事故現場には慰霊碑が建立され、毎年事故があった12月28日には法要が営まれているそうです。老朽化や強風による運休を少しでも減らすため、現在、架け替え工事が進んでいて完成間近です。最終通過列車は2010年7月16日の『はまかぜ5号』で供用停止、新鉄橋への切り替え工事のため区間運休して2010年8月12日の始発列車から新しい鉄橋を使っての運行が始まります。
大阪への帰路は『香住駅』より181系のディーゼル特急『はまかぜ』にのりました。『はまかぜ』は181系気動車を使用した最後の定期列車です。この181系も2011年春のダイヤ改正で新型の189系に置き換え予定で、その活躍もあとのこりわずかとなりました。(おわり)

大阪府 S様
 
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