加悦鉄道と餘部鉄橋
1985年(昭和60年)の冬、高橋君とふたりで廃止間近の『加悦鉄道』と、これも今年(2010年)の7月に架け替えられる『余部鉄橋』に行った時の分です。写真だけが見つかって日付も(たぶん2月か3月ごろの土日)道中の行程がよくわかりませんが、薄れかけた記憶の糸をたどってみたいと思います。
まず大阪から日本三景のひとつ『天橋立』へいきました。橋立を眺める展望台はいくつかありますが、国鉄宮津線の天橋立駅ちかくの『縦一文字』の橋立の姿を俯瞰することの出来る『天橋立ビューランド』へリフトで登りました。ここからの橋立の姿は縦一文字というよりまるでオタマジャクシのようです。
そのあと駅にもどり天橋立から2つ先の『丹後山田』駅で今回の旅の目的のひとつ『加悦鉄道』に乗り換えました。ちなみに丹後山田駅は、現在『野田川』駅に駅名が変更になっています。国鉄宮津線もその後まもなく第3セクターの『北近畿タンゴ鉄道』になっています。さらにいうなら加悦鉄道の走っていた『加悦町』も、現在は『与謝野町』になっています。時の流れというのは実におそろしいものです。
さて加悦鉄道ですが、JR宮津線(当時)の丹後山田駅から加悦駅まで5.7キロを結んでいた私鉄で、途中4つの駅がありました。もともとは沿線の特産品である丹後ちりめんの輸送や加悦駅の西にある大江山のニッケル鉱山への輸送目的で開業したものです。しかし昭和60年3月の国鉄のダイヤにより宮津線の貨物列車が廃止され主な収入源であったニッケル鉱の輸送が不可能になったため、早くも同年の5月1日に全線廃止となってしまいました。
その見切りの早さには驚くばかりですが、廃止以前から傾きかけた会社の収益向上策として明治・大正時代に製造された希少車両をあつめて観光鉄道としての営業もおこなうようになりました。ために全国の多くの鉄道ファンたちから希少車両の宝庫として注目をあつめました。
まずその一例として丹後山田駅から乗った『キハ08形気動車』というのがあります。国鉄から購入したものでもともとは『客車』でした。その車内の写真がありますが、まさに客車そのものですね。この客車にディーゼル機関を載せて、にわか気動車としたものがキハ08形ですが車内設備の見劣りや出力不足がたたりわずか十数両しか製造されなかった失敗作でした。終点の加悦駅には加悦SL広場があり、そこはまさに鉄道ファンの聖地でした。蒸気機関車はともかく他は見たことも無い車両ばかりでとくに『ハブ3号』客車は珍車中の珍車といってよいでしょう。明治22年のドイツ製で、車体の半分が客車であとの半分は荷物・車掌室なのです。案内板には昭和45年の大阪万博に参加、と書いてありますがさぞや見学者の興味を引いたものとおもわれます。
加悦からの帰路はバスに乗って丹後山田駅に戻りました。ふたたび宮津線のデイーゼルカーに乗って移動し、4つ先の『丹後木津』駅(現・木津温泉)で降りました。ここで今夜の宿の小天橋の民宿『松原荘』の出迎えをうけ宿まで送ってもらいました。宿につくと丹後・久美浜の小天橋の日本海の夕やけ空が見事でした。(つづく)

 
1 2  道中記TOPへ
     
 

(c) 2005 Takahashi Satoshi. All Rights Reserved.