サイトマップ  

 
北海道 青森県 秋田県 岩手県 山形県 宮城県 新潟県 東京都 神奈川県 大阪府 長崎県

 


あこがれの北海道
関西に住むわたしにとって北海道は、神秘に満ちたあこがれでした。
地図上は日本なのですが、どこか外国のように思えたものです。

初めて訪れたときは、札幌の時計台や大通り公園ですらとても新鮮で
(当時から、どこの旅行パンフにも載っていましたが)
ガイドブックを丹念に見ながら歩き回りました。

その後も機会があるたび、
いろいろな場所を訪れましたが
今もときどき思い出す場所に稚内(わっかない)があります。
知る人ぞ知る「日本最北端の地」を
私が訪れたのは観光客ゼロの真冬でした。

早朝に夜行列車で稚内に到着、さっそくバスで最北端まで行って
「最北端到達証明書」まで買ったのですが、
帰りの便がなかなかきません。
(最北端の地…)
その名に恥じない広漠とした場所にはひとっ子ひとりおらず
数字がほとんどないバスの時刻表は、それですら観光シーズンのみでは?
と不安になります。
(歩いてみようか?)
決して冒険心からではなく不安とサビシサと寒さにせき立てられるように
最寄りの鉄道駅をめざしました。バスでかなり走った時間を冷静に考えると
途方もない距離なのですが半ばパニックです。
まだ午前中なのに、(明るいうちに人のいる場所にもどりたい)と思いきわめ
積雪でガードレールさえ定かでない無人の国道を引き返しました。
(どれくらい歩いたかな?)
後ろから追いついてきた4WD車の運ちゃんが
「どこいくの」と声をかけてくれました。
「駅まで」と答えると、
乗せてやると行ってくれます。
唐突で不安もあったのですが人恋しく、お言葉に甘えます。
(あ〜ぬくい)
暖かい車内にはあと3人ほど乗り合わせており
いきなり地元の人たちの会話の中に放り込まれたのですが
少しずつ話を聞いていると、皆さんはこの地で漁業を生業となさっているとの事。
冬の今時分は特にすることもなく、この後3ヶ月ほどはブラブラ過ごすそうで
今日もこのメンバーでパチンコに行く途中らしいです。


私は当時、二十歳そこそこでしたが一応、社会人ヅラして働いていました。
しかし今までに運転中に見知らぬ人なんか乗せてあげたことはなく(その後もなく)
3ヶ月の休暇がある仕事なぞ、聞いたこともありません。

地図上は日本なのですが、どこか外国のように思える北海道は
たくさんのすばらしい人が住む、おどろきの町でした。


このページのトップへ



 


ホームシック青森
気候のいい春や夏に都会を遠くはなれ、自然の山や川を眺めていると、
人として忘れていたものを取り戻した気分になり
心が和み、気持ちも落ち着いてきます。

しかしそれはあくまでも昼の景色。

日没後、照明のない草原や海、山の中には
なにやら得体の知れないモノが棲んでいそうに思えて、
心はすくみ街の喧噪が恋しくなります。
モノノケや妖怪のタグイも笑い話ではなくなります。

まして季節が冬ならなおさらです。

青森県、八戸(はちのへ)駅に向かう各停列車は
乗客もほとんどおらず、寒々とした冷気が漂っていました。

車窓からの景色は真っ暗で何も見えず
気動車に引かれる客車はゴトゴトとゆれるばかりで
電車のモーターの音すらなつかしくなります。

その日は一日、岩手県を巡り
冬の三陸海岸や小さな集落をみながら過ごしました。
昔語りに楽しく聞いた遠野(とおの)の妖怪も、
今となっては笑い飛ばすには少々重く
窓に映る車内をこわごわと見てしまいます。

ようやく八戸駅に近づいてきました。
車窓を飛びすぎる小さな集落に灯っている蛍光灯が
安心と安らぎをもたらしてくれます。
妖怪は、伝説の世界に戻っていきました。
時計をみればまだ7時前、
夏なら明るさが残っている頃です。

(今日、泊まる宿はにぎやかな通りにあればいいんだけど)

喧噪をさけて遠路ここまできたのですが…


このページのトップへ


 


秋田の蒼空(あおぞら)
裏日本という言葉がありますが
高低の差こそあれこの国に表も裏もあるまいに、
というのが正直、思うところです。

昔、奥羽本線で秋田駅に向かう列車に乗っていたとき
恐ろしいほどに高い空をみました。

一般に秋空は澄んでいるとか、台風の後は空が高いなどと聞きますが
これほど高い空はその後も見たことがありません。

季節は夏のお盆のころ、特に台風一過ということもなく
また、見晴らしの良い高台にいたわけでもなく
逆に少し込みあった急行列車で座ることもできず
乗降口付近のステップに腰掛けて見上げた空でした。

それはまるで大気圏を透かして宇宙をのぞいたような
くろぐろとした空でした。
蒼天とはあのような空を言うのでしょうか。
その高さは「美しいよりも恐ろしく」感じました。

生涯においてあんな空に出会えたのは幸せでした。

高低の差こそあれ、この国に表も裏もあるまいに。
まして、あの日のあの空は
他のどこを探して見ることができないでしょう。

このページのトップへ


 


岩手の堤防
頻繁に地震があるニッポンと津波は、
切っても切り離せない関係にあります。
(きり離したいところですが)

情報網が発達した現代は、行き届いた行政と科学の力で
地震発生後数分あれば津波情報が全国につたわりますが
昔はそういうわけにはいきませんでした。

岩手県の三陸(さんりく)海岸は漁師町が点在する美しい海岸ですが
たび重なる地震と津波を受けてきた海岸でもあります。

はるか沖合でおこった地震の力はすぐに波にはならず
沖で漁をしている男たちの真下をを伝わり
海岸の浅瀬ではじめて津波となります。

一日の漁を終え港に帰り
初めて津波による村の惨状を知ったことも
一度ならずあったそうです。

脅威は突然やってきて大切な命を奪っていきました。

田老(たろう)という町には
海に面してとても頑丈な町独自の堤防があります。

実際に歩いてみると大きな川の土手のような感じがするほどです。

行政に頼るよりも、科学の発達を信じるよりも、
ただ、町のどこからも見える大きな壁が
唯一の安心だったのかもしれません。
※この記事は「2011.3.11東日本大震災」以前に書かれました。

このページのトップへ


 


宮城で思う
皆さんは映画を見に行って、その風評にも関わらず
良くも悪くも思わなかったことはありませんか?

わたしは映画に限らず、書籍や絵画、音楽などに接したとき
たまにそう感じることがあります。
正確にいえば「感じなかった」ということです。

「こころの琴線に触れる」といいますが
「触れなかった」、つまり琴線の数が乏しいのです。

日本三景の一つ、「松島」は昔から風光明媚な場所として知られており
古人はその息をのむばかりの景色を
「松島や ああ松島や 松島や」という句に残しました。

以前、松島を訪れた時、同じようにそれを眺めましたが
わたしの琴線は響かず、
古人と感動を分かち合うことはできませんでした。

残念なことですが、これが「わたし」で
この「わたし」を受け入れることから
「わたしの人生」がはじまるのだと思います。

この考えに行き着いたのは、かなり後になってからですが
今も「松島」の話題になると、残念に思ったあの日のことを思い出します。

このページのトップへ


 


親しらず新潟
親という字は「木の上に立ち見る」と書くんだよ。

親は「木の上に立ってでも我が子を探し見守るものだからね。」
と母から教えられました。

由来は定かではありませんが、小学生の私は
「ふーん」とあいまいに納得したのを覚えています。

二十歳を過ぎたころ
年末の休みを利用して佐渡島にいきました。

シーズンオフの佐渡は人も少なく
観光の拠点にした民宿のお客は私一人です。

宿のご夫婦は、わたしがあちこちを観光して帰ってくるたび
一緒に夕食を囲み、「今日はどこへいったか」、
「明日はあそこへ行けばいい」などと教えてくれました。
さらにお酒がすすめばその土地の昔の風習から、若き日の武勇伝まで語られ
最後はカラオケでご主人の十八番をご伝授していただく毎日です。

後半は移動に便利だからと自家用車まで貸してくれ
寒いだろうと暖かいダッフルコートを持ってきてくれました。

わたしと同じ年頃の息子さんがいるそうで
コートはその方のものでした。
「勝手に借りては…」というわたしに
「成人して遠くに働きにいくようになってからは
あまり帰ってこないから気にしなくていい。」とのこと。
そういえば正月休みなのに帰ってくる気配はありません。

ありがたくコートを拝借して残りの日々を楽しみました。
帰り際には「嫁さんが見つかったら連れてこい。」とまでいわれ
旅行後何年かは、年賀状も頂きました。
「これはまた、気に入られたものだ」と喜んだものです。

月日がたち、わたしも結婚して子供が生まれました。
小学校でならった漢字を練習している息子をみていると
ときどき佐渡での日々を思い出します。

佐渡のご夫婦に、わたしはそんなに気に入られたのではなく
わたしを通して、帰ってこない息子さんを思っていたのだろうなぁ。

親という字は「木の上に立ち見る」と書くんだよ、と
そろそろ子供に教える時がやってきたようです。

●佐渡の「風習」と「丸干しいか」
日本海に面した佐渡、外海府(そとかいふ)海岸には小さな入り江がたくさんあり
昔はそれぞれの入り江がひとつの村落だったそうです。
村の若い人はとなり村から「嫁さん」を貰うこともよくあり
当時はいまほど格式張らずに一升酒とスルメ2枚が持参金代わりだったとか。

スルメといえば佐渡には「丸干しいか」(佐渡本舗)なるものがあります。
いかをそのままワタごと干したもので、
軽く炙ったときの香ばしい香りはナマツバものです。
普通のスルメとちがい、噛めばにじみ出るワタの苦みが何ともいえず、
これからの季節、ビールの肴に最高の逸品です。

昔からの祝い物だった「いか」は、
今も人々に喜ばれる一品として残っていました。


このページのトップへ




 


東京から1000km
実は離島マニアです。
首都東京にはあまり関心がありませんが
小さな島々には限りなく愛着を感じます。
時間の許す限りいろいろな島を訪れましたが
その中のひとつに小笠原諸島があります。

年の暮れに名古屋港からフェリーに乗り
船内で餅つきをしながら洋上で年越し
到着したのは正月二日ぐらいだったでしょうか。

島内に大型宿泊施設がないため観光しても
夕方には港から小さな船でフェリーにもどり
そこで寝泊まりしていました。
小さな船は乗客を乗せて港とフェリーを何度も往復します。

ウミガメの肉を食べたのはフェリーに戻るために
その小さな船を待っているときでした。

誰かがスーパーらしいところで買ってきたのを
お相伴にあずかったのですが
生のまま、生姜醤油で食べるんです。

島には戦時中の沈船(ちんせん)や、小さいけど驚くほどきれいな入り江や
自動車教習所、少し変わった話し方など
独特の歴史や文化がありましたが
ウミガメの肉はそんなものを超越して
強烈に、この島の位置と歴史と文化を教えてくれました。

「ここは本土から1000kmも離れているけど東京都なんだよ。」
とみんなは言いますが
ここには首都とは全くちがった立派な文化と歴史があります。
ここが東京にまとめられているのが少し残念な気持ちになりました。

このページのトップへ


 


鎌倉の雨
「遠くへ行きたい」は一人旅を魅了する歌だと思います。

世間のシガラミを忘れて珍しいものを見聞きする。
自身の価値観を見つめ直し旅が終わる頃にはひとまわり大きくなって…

でも実際にそんなに充実した旅はありませんでした。
世間に希望と現実があるように空想旅行でない限り、旅にも現実は迫ってきます。
暑さや寒さ、ギリギリの観光時間と行列、混んだ車内、手抜き郷土料理、
ベラボーに高い入場料や、旅館の不遇と数え上げればキリがありません。

夜行列車で鎌倉に行ったときは、着いた朝から雨でした。
長谷の観音さん、露座の大仏、江ノ島はみんな雨の中です。
移動は煩わしく、それでも観光客は多く、持参の傘も駅に置き忘れる始末です。
途中でやむなく買ったビニール傘は、まがまがしいほどムラサキ色でした。

そんな旅にも最後に一瞬だけ見えた夕日や、感動的な虹、降るような星空など
それまでの鬱憤を一掃しておつりが来るほどの体験がついてくるのが通説ですが
そんなものがないのが現実です。

家に帰って現像した写真をみても今ひとつでした。

何年か経ち、家族の間で鎌倉や東京の話題が出ました。
母はオオフナの撮影所の話をし、今もあるのかないのかと懐かしがり
父は東京で暮らして苦労したことを楽しそうに話しています。

私が鎌倉で傘をなくした話を途中まですると
「そこで傘を忘れたんやろ」と先回りされました。
気付きませんでしたが、私は何度もその話をしていたそうです。

父が、苦労した東京暮らしを楽しそうにするように
なんと私も、雨の鎌倉旅行を楽しげに何度も話していたとは…

そういえばあのとき買ったムラサキの傘は長い間、家にあり
特に気にもせずに使っていました。

今、思い出しても鎌倉旅行はあまり楽しいイメージがないのですが
人の精神構造は複雑です。

「遠くへ行きたい」は一人旅を魅了する歌だと思います。
行けば容赦のない現実が待っているのですが…

このページのトップ


 


民俗学的大阪
旅行先ではいろいろなものを見る機会があります。
中でも興味があるのがその土地で昔から残っている道具や建物、
風俗、習慣、それに地名です。
民俗学者を気取るつもりは毛頭ありませんが
そんな目で見ると行く先々が観光地でなくても
たくさんの興味深いものが発見できて面白いものです。

大阪府和泉市に父鬼(ちちおに)というところがあります。
和歌山県との県境に位置し、交通の要所として昔から開けていたそうです。

「鬼」という名の由来や、他県に隣接した微妙な立地、街道として伝わった文化、
古い文献に書かれた当時の出来事や希少な写真を知識として仕入れ
実際にそこをたどってみると大変深くその町のことがわかります。

柳田國男氏(民俗学者)も
「生活文化史の解明を目的とする民俗学にとっては、
文献資料にのみ依拠することには限界と危険がともなうのであり、
それゆえフィールドワークによる民俗資料の収集が重要だ。」と論じておられます。

そんな旅行もまた味わい深くいいものです。

このページのトップへ




 


長崎・自給自足
皆さんは魚が食べたくなったとき
どうするでしょうか。

レストラン、食堂、居酒屋にいく?
魚屋さんやスーパーで
切り身を買ってきて家で料理?

わたしの知っている人に
食べたい分を、海へ獲りに行く人がいます。
釣り糸を垂れ、あるいは潜りその日の糧を得るのです。

その人はちいさな島に一人で住み
お米や、服など海や山にないものを得るために
働いています。(経済の原点ですね)

それでいて心はおおらかで
自分のスタイルに微塵の不安も抱いていません。
海を眺めて絵を描き、山を仰いで土を練る。
曜日よりも天候で決まる、その日の生活。

貨幣経済と資本主義の競争社会にどっぷりと浸かるわたしは
今の生き方に後悔はありませんが
このニッポンにまだ、彼のような生き方ができる
余地が残っていることにおどろきました。

長崎県は五島(ごとう)列島、
たくさんある島のひとつの、おはなしです。

このページのトップへ


 
 

(c) 2005 Takahashi Satoshi. All Rights Reserved.